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渋沢栄一と東京海上・各務鎌吉の接点

渋沢栄一と東京海上・各務鎌吉の接点

東京海上日動火災保険株式会社図書史料室 櫻井由佳

2025年1月22日発行
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 本稿は公益財団法人渋沢栄一記念財団の機関誌『青淵』第905号(2024.08)に掲載した記事を一部改稿したものです。


<目次>

1. 企業アーカイブズの存在と役割
2. 東京海上にとって渋沢栄一とは何者か?
3. 各務鎌吉は伊香保で何をしていたか?
4. 二人の接点を示す記録は「ない」?


1. 企業アーカイブズの存在と役割

 企業は、社会においては存在感があるのに資料の世界では存在感がない。企業史料は社外秘だから、と言われるが全てがそうとは限らない。現状としては、社内外問わず用があって尋ねられ対応可能であれば条件を提示して公開する。何かしらの理由があって公開が難しいようであれば理由を述べて謝絶する、という当たり前の対応をしている。東京海上日動火災保険株式会社で社内向けサービスを担う「図書史料室」が、社外に対して「限定公開」を選択してきたのは、確かに社会に存在する企業が、自ら創り出している記録を持たず見えなくしてしまうと社会の一員としての役割を果たすことができなくなってしまうから、と認識している。本稿では、探し難く人目につかない資料を含め用いて極めて素朴な問い三つを扱ってみたい。

2. 東京海上にとって渋沢栄一とは何者か?

 渋沢栄一と東京海上の関係性は分かり難い。渋沢は東京海上保険会社創立の「発起人」だが、その名は創立願書や創立証書などには見当たらず、頭取・会長・社長の肖像写真にも姿がない。しかし確かに渋沢が「発起人」の役割を果たしたことは、当社の社史や『竜門雑誌』第282号(竜門社, 1911.11)といった公開されている資料にも示されている。また渋沢は岩崎弥太郎と共に創立時の1879(明治12)年に「相談人」に就いているが、渋沢そして岩崎の代理である荘田平五郎が、当初から取締役会に役員と同じように出席、発言し経営に深く関与したことは「取締役会議事録」に記録されている。

 さらに分かり難いことに、渋沢は創業から15年も経てから、東京海上保険株式会社の「取締役」に就いた。なぜ、取締役になったのか?『東京海上火災保険株式会社百年史. 上』(東京海上火災保険, 1979)には「岩崎弥太郎の代理として相談人となっていた荘田平五郎が明治24年8月、正式に取締役となり、27年1月には、これまで事実上の顧問格であった渋沢栄一が取締役に就任」とサラリとした記述しかない。年表にして気付いた。渋沢が取締役に就任した半年後、簿記方として入社して3年目の各務鎌吉(かがみ・けんきち、1869-1939)が経営危機の原因究明のためロンドンに派遣されている。その各務による「渋沢子爵と海上保険」(『竜門雑誌』第481号(竜門社, 1928.10))に名答がある。「当時民間に於ける唯一の先覚者として、専ら経済事業の建設に尽力せられたる渋沢子爵は実に東京海上保険会社の創立者である。而も東京海上保険会社は日本最初の保険会社であるから、渋沢子爵は我国保険事業の創設者と言はねばならぬ」「子爵は創立者たるの責任を常に脳裡に置かれ、相談役から取締役と成り、逐一経営の相談に関与せられたのである」「会社危急存亡の秋(とき)に当つて、私等若い者の心が動揺せず、確乎たる信念を以て難局に終始し得た所以は洵に渋沢子爵が会社に居られると云ふ安心があつたからである」。渋沢は自ら興した会社の危機に際して取締役となった。渋沢と各務の接点には、危機がある。接点は関東大震災でも発生している。

3. 各務鎌吉は伊香保で何をしていたか?

 関東大震災から100年という区切りであった2023年は、関連する資料やエピソードを掘り起こして見直す良い機会となった。損害保険会社各社の社史に記述された関東大震災を比較してキーワード検索の対象から外れる「関東大震火災」を知り、参照すべき社史は『明治火災保険株式会社五十年史』(明治火災海上保険, 1942)と再認識した。保険会社にとっての関東大震災は約款で地震火災に対する免責が規定されていたにも関わらず、結果として物情騒然を収めるためにやむなく政府助成を受けて見舞金を支払い、その返済に最長半世紀を要した「火災保険金問題」だった。この問題については各社の社史と、田村祐一郎「関東大震災と保険金騒動」(『流通科学大学論集-人間・社会・自然編-』第16巻第3号~第23巻第1号)や『平生釟三郎日記. 第5巻』(甲南学園, 2012)の藤本建夫による「後記」などが詳しい。膨大な当時の新聞記事を分析した田村は「経済事件としては復興計画に並ぶ重大問題」「その後の保険業界に大きな後遺症を残す事件」であった保険金騒動が一般の記憶や記録に残っていないことや、合理主義と定評がある各務の選択や出遅れに疑義を示している。

 明治火災保険株式会社の取締役会長および東京海上火災保険株式会社の専務取締役であり、大日本連合火災保険協会長であった各務は関東大震災発生時には伊香保にいて、帰京が遅れた。各務は伊香保で何をしていたのか?各務の「避暑」とは今で言うワーケーションと鈴木祥枝編『各務鎌吉君を偲ぶ』(各務記念財団, 1949)、稲垣末三郎編『「各務氏の手記」と「滞英中の報告及び意見書」』(東京海上火災保険, 1951)など公開されている資料で認識できるが、震災時の動向を知るには社内資料が必要となる。当時、伊香保に随行して震災直後に東京へ往復もした吉良洋平(元東京海上社員、大成火災会長)による「遠友近信:関東大震災と各務さん」(『東海月報』昭和39年12月号)と、東京から伊香保を往復した鈴木祥枝の「回顧録」とを突き合わせてみたい。

 「事態の重大さが判るに従って、各務さんは折柄滞在中の木村日銀副総裁と鳩首話合われ、インフレ対策・モラトリウムなどという意見が交わされていました。直ぐ東京に帰る事を決意されましたが、とても帰れそうにないので大阪を本拠にしようと言われ、旅装もろくろく整えず北陸廻りを目指して出かけたのです。高崎迄は出られましたが来る列車は避難者で屋根迄一杯。各務さんはあの巨体を窓から入るといって聞かれないので下から押し込もうとしましたがどうにもなりませんでした。ちょうど田崎仁義博士(当時神戸高商教授)が窓から首を出されて『大阪方面は自分が可然伝言するから』と言われ、已むを得ず引き返しました」。その後も「どうしても東京へ連れて行けと頑張られるので自動車を呼び寄せるのに苦心惨胆。丁度伊香保にいた大蔵省の青木一男さんの力を借り、各務さんの自家用車に来て貰って東京へ引き返した訳です」と吉良は回顧している。一方、東京海上火災保険株式会社の支配人であった鈴木は「会社の自動車を駆りて伊香保に向かった。途中高崎駅から伊香保の各務邸へ電話すると各務さんはまもなく駅に着かれると云う。脚袢ばきの各務さんと出合い、私の自動車で伊香保に赴いた。大体の数字を報告しつつ物情騒然たるものがあるから帰京を見合わせんことを申進め私は即日帰京した」。ところが間もなく「火災保険が遂に社会問題と化し政府としては協会長の各務を呼び戻せと云うことになった。当時『ガソリン』が不足となって会社の車は使えなく困って政府当局に交渉し『ガソリン』を貰ってヤット各務氏の帰京を見たのである」と回顧している。各務は温泉でのんびりしていたわけでない。しかし確実に一度、もう数日早く、帰京する機会を逃している。

4. 二人の接点を示す記録は「ない」?

 帰京した各務は9月10日、農商務省で協議したのち大蔵省で大臣に損害保険会社の資産や再保険つまりは英国との関係などの事情を説くことから問題解決に着手し、当時各務と共に東京海上火災保険株式会社の専務取締役であり阪神を拠点としていた平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう、1866-1945)と連携し東奔西走して業界をまとめる。渋沢も火災保険金問題に深く関与した当事者の一人である(『渋沢栄一伝記資料. 第51巻』(渋沢栄一伝記資料刊行会, 1963))。30年前と同じく揃って、しかし各務と渋沢は全く異なる立場で、この危機にあたったわけだが、どう探しても両名がやり取りした形跡が見つからなかった。

 吉良の回顧に木村清四郎の名前があった。各務は書き残したものが少なく、伊香保で口述した「手記」は途中まで。宇野木忠による伝記『各務鎌吉』(昭和書房, 1940)は、事実と創作の境を検証するのが難しい。しかしこの伝記の冒頭には、各務と渋沢が共に納まる写真が載っている(図1)。各務と渋沢の間、ここにも木村がいる。もう一人は宇野。場所は、伊香保木暮別邸。『渋沢栄一伝記資料. 別巻第10. 写真』(渋沢青淵記念財団竜門社, 1971)に角度のみ異なる写真を見つけ、「昭和2年8月16日」撮影と判った(図2、3)。関東大震災からわずか4年後、彼らはどんな話をしたのだろうか?

 記録は残さなければ残らず、資料は探せるようにしておかなければ探し出せない。そして、複数の視点で眺めることにより明らかになることは多い。渋沢と各務の接点を示せる可能性は、社外に「ある」。もうしばらく、探してみたいと思う。

* * *

(図1)「伊香保木暮別邸にて」
出典:宇野木忠『各務鎌吉』(昭和書房, 1940)
伊香保木暮別邸にて

(図2)「伊香保・木暮旅館にて1(昭和2年8月16日)」
出典:『渋沢栄一伝記資料. 別巻第10』p.242,「渋沢栄一フォトグラフ」より
伊香保・木暮旅館にて1(昭和2年8月16日)

(図3)「伊香保・木暮旅館にて2」
出典:『渋沢栄一伝記資料. 別巻第10』p.242,「渋沢栄一フォトグラフ」より
伊香保・木暮旅館にて2

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