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花王アーカイブズと花王ウェイ:ビジネス環境の変化の中におけるアーカイブズと企業アイデンティティー

花王アーカイブズと花王ウェイ:ビジネス環境の変化の中におけるアーカイブズと企業アイデンティティー

公益財団法人渋沢栄一記念財団 情報資源センター
2015年11月18日発行
[PDF版 (340.9KB)]


<目次>

はじめに
花王株式会社について
花王アーカイブズ
花王ウェイ
おわりに


 本稿は2012年8月にオーストラリア・ブリスベーンで開催された国際アーカイブズ評議会(ICA)大会で、Neither Merger, Nor Acquisition, Nor Diversity, Nor Generational Change Can Stay Them: The Indispensible Role of Corporate Archives in the Identifying, Shaping, and Propagating of Corporate Identity と題して発表した後、ICA会誌Comma 2013/1号 に掲載した記事 Archives and corporate identity in a changing business environment: The Case of the Kao Corporation の日本語版です。なお、ここに掲載されている内容は原稿執筆時点の情報に基づいています。


はじめに

 この発表では親組織のアイデンティティーの確立と、従業員をはじめとする利害関係者(ステークホルダー)間でのそのアイデンティティーの共有に、企業アーカイブズが貢献している事例を見てゆきたいと思います。日本における大手化学メーカー花王株式会社のアーカイブズの取り組みを紹介します。

 図1はビジネスアーカイブズが多様な価値を持ち、企業経営のツールとして用いられることをあらわしたものです。この考えは2011年5月に東京で開催されたICA/SBL国際シンポジウムの主要なテーマでした。公益財団法人渋沢栄一記念財団実業史研究情報センターは、この東京シンポジウムとそれ以前のICA/SBLセミナーで行われた発表を集め、2012年7月ウェブ上で電子出版しています。本書の序章にこの図は含まれています。

 財団の企業史料プロジェクト担当は「企業史料ディレクトリ」の編纂のため多くの企業アーカイブズの方々の話をうかがってきました。それらの企業は「経営理念」を策定し普及するにあたり企業アーカイブズを貴重な情報の源泉として重視しています。「経営理念」という言葉は、corporate identities、corporate philosophies あるいは corporate principles と訳せます。企業文化corporate cultureとも密接に関わります。


図 1 - ビジネスアーカイブズの多様な価値

ビジネスアーカイブズの多様な価値


 企業が成長し事業を拡大するにつれて、企業アイデンティティーを確立して社員の間で共有することが重要な課題になってきます。これは企業が順調に拡大しているときばかりでなく、景気が悪く業績が低迷するなかで生き残りをかけて戦っているときはさらに必要なことです。日本では、多くの企業はバブル経済後の困難な状況のなかで、自社の資源の有効活用に努力してきました。企業アーカイブズがかつてなく企業アイデンティティーの強化のために重要な役割を果たしています。花王株式会社はまさにその例です。



花王株式会社について

 花王の創業者長瀬富郎(ながせ・とみろう、1863-1911)は花王の前身の洋小間物商「長瀬商店」を1887年に創業しました。1890年に花王石鹸の製造販売を開始し、これが後に続く100年以上の花王の歴史の礎となりました。花王グループは今日、現在連結子会社100社を有する有力な一般消費財製造メーカーで、ビューティーケア、ヒューマンヘルスケア、ファブリック&ホームケア、そしてケミカル事業を展開しています。本社は東京の日本橋茅場町にあり、グループ社員は34,000名を超えます。東京証券取引所に上場しており、2012年3月期決算の実績は連結売上高が1兆2,160億円、連結営業利益が1,085億円となっています。グループは世界30カ国・地域に法人を設置し、112カ国・地域の市場に製品を供給しています。


花王アーカイブズ

 花王アーカイブズは、現在はコーポレートコミュニケーション部門企業文化情報部に位置します。アーカイブズの前身は、花王の象徴的ブランド石鹸・花王石鹸発売50周年を記念して『花王石鹸50年史』出版準備のために1936年に設置された「50年史編輯室」です。

 ここで「社史」として知られる分野について簡単に説明しておくほうがよいでしょう。「社史」は会社の歴史を意味する一般的な名詞ですが、通常は出版された会社の歴史に関する書物を指します。社史の専門家によると、明治末以来2002年までの間に日本では13,000点以上の社史が刊行され、現在でも年に100点以上が刊行されています。このことから日本企業は社史を歴史コミュニケーションのツールとして重要視しているのが分かります。花王の場合もこれに当てはまります。50年史を1940年に、70年史を1960年、80年史を1971年、100年史を1993年、そして120年史を今年2012年に刊行しています。花王では社史刊行をインターナルブランディング重視活動としても位置付けています。

 このように定期的に社史を刊行していることからも明らかなように、花王は社業発展の過程を通じて過去の遺産に多大な関心を払ってきました。しかし、アイデンティティー identity にとりわけ関心を抱くようになったのは最初からというわけではありませんでした。暗黙知としての経営理念 corporate philosophy が明確にコンセプトとしてまとめられたのは1990年代半ばでした。この時期はバブル経済が崩壊したあとの経済の低迷時期でした。それはまた1950年代から70年代初頭の高度経済成長を支えた社員の大量の退職時期に重なっています。世代交代の時期と言えます。海外展開も広がった時期で、グループ社員の多国籍化の最中でもありました。さらに事業分野の変化もありました。1990年代初めに世界市場で支配的地位にあったフロッピーディスク製造事業からの撤退が1997年のことです。

 花王のアーカブズは、コーポレートコミュニケーション部門の主要な機能に位置づけられていますが、1995年に当時の経営幹部とコーポレートコミュニケーション部門のチームは過去の記録や遺産に基づいた経営理念の策定に取り組み、「花王基本理念」に結実しました。これはさらに見直されて2004年に「花王ウェイ」となりました。「花王基本理念」と「花王ウェイ」の間には、コーポレートコミュニケーションチームは経営トップの哲学伝承書籍の刊行に取り組みました。


花王ウェイ

 花王ウェイは社内における大きな影響という点でひとつのマイルストーンです。アーカイブズは、花王ウェイがグループ社員に浸透するために、多くの物語、事例、資料を提供しています。ここで簡単に花王ウェイについてふれておきます。花王ウェイは次のように言っています。

花王ウェイは、「使命」「ビジョン」「基本となる価値観」「行動原則」で構成され、 それぞれは次の内容を表しています。

使命:私たちは何のために存在しているのか
ビジョン:私たちはどこに行こうとしているのか
基本となる価値観:私たちは何を大切に考えるのか
行動原則:私たちはどのように行動するのか

 花王ウェイは「よきものづくり」(Yoki-monozukuri, a strong commitment by all members to provide products and brands of excellent value for consumer satisfaction)、「絶えざる革新」(Innovation)、「正道を歩む」(Integrity)を大切に考えています。これらの価値観はまさに創業者と歴代経営者に関する記録から引き出されたものです。Yoki-monozukuri は日本語(「よきものづくり」)ですが、これに正確に対応する英語は存在しないことから、そのまま Yoki-monozukuri として花王ウェイに掲げられています。

 2005年は「アジア一体運営」戦略 Asia Harmonaization Strategy が打ち出された時期であり、コーポレートコミュニケーションチームは花王ウェイの普及にさらに貢献することとなりました。同チームは花王ウェイ研修のためのワークショップを開催しますが、これは、もともとはグローバルに多国籍化したグループ内でのコーポレートアイデンティティー共有のため、海外の現地法人を対象としてはじまったものです。最初にマレーシアで試験的にワークショップを行った後、タイで最初のワークショップが開始されました。コーポレートコミュニケーションチームは最初に現地のトレーナーを養成するためのワークショップを開催し、その後はここで養成された人材が現地でのワークショップを行います。アジア地域から始まり、欧米諸国での開催を終えて、現在は実施されていない事業所が残る日本国内で引き続き花王ウェイ普及のためのワークショップが行われています。

 なお2007年には花王ミュージアムがオープンしました。この施設もまた、従業員、経営者、取引先、顧客といった全てのステークホルダーの間で、コーポレートアイデンティティー理解をサポートしています。

 花王は「世界で最も倫理的な企業」World Most Ethical Company として6年連続で選定されていることもここに記しておくべきでしょう。2012年5月24日に企業史料協議会総会での講演で、同社取締役常務執行役員法務・コンプライアンス部門統括コーポレートコミュニケーション部門統括(当時)中川俊一氏は倫理面における花王のアチーブメントは花王ウェイの普及と実践による点を強調されています。つまり、花王アーカイブズなしには不可能だったともいえるでしょう。



おわりに

 企業アーカイブズは企業の中で重要な機能・役割を果たします。アーカイブズは「われわれは何者か?」「私たちの会社は何者か?」という問いに答えを与えてくれるのです。企業アーカイブズの担当者(ビジネスアーキビスト)の使命は、その会社が顧客のウェルビーイング、究極的には社会全体、にどのように貢献してきたのかに関わる企業遺産コンテンツを提供することにあります。そのようなコンテンツが社員に共有され、社員の心の琴線に触れる時、アーカイブズの歴史遺産は、社会的に信頼しうる行動へ企業人を駆り立てるものとなります。これはコンプライアンスとビジネスそのものへの、目には見えない道義的な力の基盤となるのです。



*本記事作成に当たっては、花王株式会社企業文化情報部花王ミュージアム・資料室のみなさまにご協力いただきました。記して感謝いたします。

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