5. 『渋沢栄一伝記資料』デジタル化の意義 / 渋沢雅英

【2012年11月7日 日本教育会館 企業史料協議会 第1回ビジネスアーカイブズの日「デジタルはビジネスアーカイブズの未来を拓くか?」特別講演】

写真:『渋沢栄一伝記資料』[ はじめに / (1) 第一国立銀行開業式 / (2) 帝国劇場・女優学校 / (3) 『渋沢栄一伝記資料』 / (4) 『太平洋にかける橋』 / (5) 渋沢栄一とインド / (6) おわりに ]

○ はじめに

 お招きをいただいた渋沢でございます。『渋沢栄一伝記資料』(以下『伝記資料』とも)のデジタル化についてということですが、多少ともご参考になればと願っております。

 お話の順序として、最初に明治時代の古いお話を2件ほどお伝えしたいと思います。はじめは明治6(1873)年、第一国立銀行の開業式の話題、二つ目は同じく明治40(1907)年帝国劇場の設立とこれに付属して開設された日本最初の女優学校についてです。2件ともたいへん古い話ですが、『伝記資料』を検索することで私のような素人でも、その時代の雰囲気を再現するような物語を紡ぐことができるということをお伝えしたいという趣旨でございます。

 続いてその原本となった『渋沢栄一伝記資料』なるものが、どういうプロセスを経て編集刊行されることになったかを辿ってみたいと思います。そして48,000ページ余りに上るこの膨大な資料集がデジタル化された経緯と、その結果について,これもまたいくつかのストーリーを交えながらご報告をしてみたいと考えております。

(1) 第一国立銀行開業式

 明治6(1873)年8月1日に行われた第一国立銀行の開業式は、日本初の近代的金融機関の発足を告げる重要なイベントでした。みずからその場に参加された故佐々木勇之助氏の回想によれば、式典が行われた場所は、その前年、清水喜助氏によって設計施行され、三井組ハウスと云う名で呼ばれた5階建ての擬洋風建造物の1階のフロアだったということです。

 そのころこの建物は東京の近代化の象徴として、錦絵などで大評判となっていたものを、創立直前の第一国立銀行が本店として使用するため、約13万円を支払って購入したものでした。設計図によれば、建物の1階の西北の角には大きな金庫が置かれ、式典と宴会はこの金庫の前で行われました。

 来会者は株主をはじめ、為替会社や、商社、蒸気船会社など、生まれたばかりのこの国の「財界」を代表する人々に加えて、大蔵省からは、銀行開業免許の交付に関わった紙幣頭、のちの伯爵芳川顕正氏が馬車に乗って到着し、政府を代表して祝辞を述べました。

 佐々木氏によれば、金庫の前にしつらえたテーブルには、西洋料理やお赤飯などが並び、佐々木氏をはじめとする新入行員は、それぞれ葡萄酒の徳利を持って、御給仕をしたり御酌をしたりして来客の接待に当ったと云うことです。

 創立当時の行員は重役を別にして30人位、殆どが士族の出身者で、受付の係などはお客様に対して、まるでお役人のように威張りちらしていたようです。勤務中の服装は和服に袴をつけて、靴を履いた人は一人もいませんでした。ただ唯一の例外は渋沢栄一で、いつも洋服を着て出勤していたと云うことです。

 宴会がたけなわになると芳川紙幣頭のあとをうけ、当年取って33歳の渋沢栄一が、大きな奉書紙を開き、みずから墨書したと思われる開業の辞を読み上げました。当時の栄一は新銀行の総監役という地位が内定していましたが、8月1日の時点ではまだ大蔵省の「御用滞在」という役職に就いていたため、株主代表という資格で挨拶を行いました。

 この日以降栄一は、当初は総監役、第一銀行に変わってからも頭取として43年の間、この銀行の経営に心血を注ぎ、かつこれを拠点として約500の企業の設立運営を支援し、日本の近代化の推進に全力を挙げることとなりました。そして大正5(1916)年に76歳を迎えると、7月の株主総会でとくに発言を求め、頭取の地位からの引退を表明しました。そしてそのあとを受けて2代目の頭取に就任されたのが他ならぬ佐々木勇之助氏でした。

(2) 帝国劇場・女優学校

 次のお話は帝国劇場の創立です。昨年[2011年]の3月1日が開場100周年に当たるということで、盛大なお祝いの会が開かれ、開幕準備中の音楽劇「レ・ミゼラブル」をはじめ、今年度に上演が予定されている「細雪」を始めいくつかの演劇のキャストの全員が、色とりどりの衣装に身を包み、東京會舘の最上階の大広間に集まり、ビュッフェ形式の華やかな宴会が催されました。たまたま帝劇の創立に関わった渋沢栄一の縁者ということで、乾杯の挨拶をするようにという東宝株式会社からの要請があり、日頃見たこともない美人の女優さんたちが大勢並んでいる前で、何をお話ししてよいか困惑しましたが、とにかく『伝記資料』を検索していくつかのトピックを見つけ出し、その上にお話を組み立ててみました。

 発端は明治41(1908)年9月9日の渋沢栄一の日記でした。「午前六時起床、入浴シ、畢テ川上貞奴ノ来訪ニ接シ女優養成ノ事ヲ談話ス」という記載がありました。世界的に大活躍された貞奴さんの用件は、夫の音二郎氏とともに設立された女優養成所の事業を支援して欲しいと云うことでした。たまたま栄一は2年前の明治39(1906)12月、帝劇の創立委員長に就任し、日本の演劇の近代化に強い関心を寄せていましたので、早速関係者と協議の上、帝劇がその事業を肩代わりすることを決め、9月15日の開所式に出席し、挨拶の中で次のように述べております。

 「私は芝居などの分る人間では無いが、帝劇にも関係して居り、今度設立された川上夫人の女優養成所には非常な賛意を表するものである。江戸時代の日本では、3種類の人々が不当に賤しめられてきた。第一は商売人、第二は女性、第三は俳優である。ご承知の通り、当時百姓町人は人間扱いされず、女性も、非常に侮蔑されて居たし、俳優に至つては河原者と云つて、市民権がないかのように扱われていた。
 今度川上夫人の趣旨に応えて、女優たらんとして多くの優秀な女性がこの養成所に志願されたことは大変に喜ばしい。とくにこれ迄社会から賤しめられてきた女性が、社会から賤しめられてきた俳優に成ろうとされるのは、同じく社会から賤しめられてきた商売人である私共に取っては欣快に耐えないことである。」

 結果として、貞奴さんの女優養成所は明治42(1909)年7月15日、名前を「帝国劇場附属技芸学校」と改め、劇場の構内に62坪の新しい施設を造り、学則其他を整備して東京府から正式な認可を受け、栄一はその責任者として運営のお手伝いをすることとなります。第一回生には代議士の森肇氏を父とする森律子さんをはじめ、村田嘉久子さん、初瀬浪子さんなど、近代日本を代表する大女優が輩出することとなりました。

 「日本の近代女優第一号」として令名をはせた貞奴さんは、まもなく芸能界を引退されましたが、渋沢栄一の方は明治44(1911)年3月1日に劇場が開場した後も大正3(1914)年7月23日まで取締役会長を務め、その後も名誉顧問として何かとお手伝いをする事となりました。

(3) 『渋沢栄一伝記資料』

 次にこれらのストーリーの材料を満載した『渋沢栄一伝記資料』について一言お話ししたいと思います。全68巻に及ぶこの資料は、「読む」伝記ではなく、資料の集積として企画されたものですが、その原点となった考え方は、大正15(1926)年10月15日、栄一本人を交えての近親者の会合で、栄一の孫で直接の後継者となった渋沢敬三が述べた言葉にあったように思われます。

 この席で敬三は親族や栄一個人の事務所などが書く伝記はとかく我田引水的になりがちなので、伝記は外部の人にお願いするが、「資料は是非我々の手で出来るだけ蒐集して置かねばならぬ。如何なる微細な事でも、又一見つまらぬ様な事でも、ありのまゝに出来得る限り集めて置かねばならぬ。そして後に伝記を書く人に自由に使用させねばならぬ」と主張しました。そして従来の(伝記編纂の)準備作業でも、栄一の記憶をはじめ、相当の材料が集まってはいるが、栄一自身の感じとか、考えとかが判然と出ていないことが遺憾であると言っております。

 敬三はこのとき30歳、大正11(1922)年からの正金銀行のロンドン支店勤務を終わって大正14(1925)年に帰国し、近く第一銀行の役員就任が予定されている中で、85歳を超えて次第に高齢化が進む祖父栄一の側近としてその活動を補佐するという毎日を送っていました。このときの会合は午後5時から飛鳥山の栄一邸の洋館応接室で開催され、出席者は栄一本人と敬三のほか増田明六氏ら側近者4名となっています。

 敬三は栄一を明治時代の古老と見立てて、現代のいわゆるオーラルヒストリーの方式により、事前の研究を進めた上でいろいろな問題、たとえば廃藩置県とか、紙幣の発行とか、明治維新当時の民心の動向、さらには近代的企業の創設の経緯などを記録し、単に伝記の材料とするのみならず、一般の歴史家の研究の材料となるようなものにしたいと述べました。そして栄一はこれに対して「どうしても親族関係のものが伝記を作ると褒めることになる、悪いことは隠すことになり勝である。従って事実を事実とせられないから後世の人が公平に書くまで材料のみ集めて置くというのには賛成であります。」と答えて敬三の提案にゴーサインを出しております。

 このような経緯を経て発足した『伝記資料』の編纂は、栄一の死後竜門者を主体として本格化し、昭和7(1932)年には幸田成友氏、昭和11(1936)年以降は土屋喬雄氏を編纂主任として作業を開始し、昭和19(1944)年には岩波書店から旧第1巻が刊行されましたが、戦況の悪化により中断され、収集済みの資料は、戦火を避けるためすべて第一銀行の地下金庫に収納されました。

 戦後は昭和29(1954)年に矢野一郎氏を会長として「渋沢栄一伝記資料刊行会」が設立され、土屋喬雄氏が引き続き編纂主任を務められ、翌昭和30(1955)年に第1巻が再度刊行され、以後年6冊のペースで刊行が続き、昭和40(1965)年に58巻の刊行が終了します。昭和41(1966)年には朝日賞を受賞しますが、このときには発案者の敬三はすでにこの世の人ではありませんでした。

 刊行会はここでいったん解散し、なお残っていた資料は渋沢青淵記念財団竜門社がこれを引き継いで、昭和46(1971)年に別巻10冊の完成とともに48,000ページ余りに上る資料すべての刊行が完了しました。栄一没後40年目のことでした。

 この『伝記資料』の膨大さについて、土屋喬雄氏は次のように述べて居られます。「この「渋沢栄一伝記資料」全五十八巻が、帝王等の伝記は別として、一市民の伝記文献としては、今まで多数の西洋史家にたずねた結果では、古今東西にわたり最大のものであるということである。(中略)その根本の理由は、渋沢栄一翁がわが国の歴史上比類少ない偉大な指導者で、その活動がきわめて多岐・多端にして長期にわたり、しかもその事歴が、公共的性格の濃厚なものが多いことにより、各方面に資料がはなはだ多く残ったためである。」

 『伝記資料』の構成や見出し項目、収載資料数など内容の詳細並びにその全巻を対象とするデジタル化の経緯については、後ほど小出いずみさんからご報告を頂きたいと思っております。小出さんは国際文化会館図書室長、企画部長を経て、渋沢栄一記念財団では実業史研究情報センターのセンター長として、過去10年近く、このデジタル化を始め、「実業史錦絵絵引」の制作など多方面の研究を進めてこられました。

(4) 『太平洋にかける橋』

 昭和44(1969)年8月、吉田国際教育基金並びに読売新聞社から、渋沢栄一を中心とする国民外交の歩みについて調べてみないかというお話がありました。ちょうど所用で1ヶ月ほどアメリカに旅行する直前のことでもあったので、現地で大学の図書館に通ったり、手当たり次第に書籍を買い集めて明治以来の日米関係が辿ってきた紆余曲折を勉強しました。そして帰国後は『伝記資料』本編の最終巻である第58巻に記載された詳細な索引を頼りに、日本側、特に栄一の活動について読みあさってみました。その結果、明治・大正・昭和にわたる複雑な歴史の動きと、その渦中にあって持ち前の闘志と誠心誠意のすべてをかけて努力する栄一の姿が、かなり緊迫し、かつ充実した一つのドラマとして浮き彫りにされてきました。

 何しろ30年にわたる息の長いドラマであります。登場人物もまことに多彩でありました。袁世凱、孫文、蒋介石など近代中国の歴史の骨格を作った人々が現れるかと思えば、ルーズベルト、タフト、ウィルソン、ハーディングと、4代にわたるアメリカの大統領が、つぎつぎに姿をみせます。当時未曾有の成長期にあったアメリカの経済を切り回していた多くの有能な財界人も活躍するし、アメリカ労働運動の父といわれたAFL会長サミュエル・ゴンパース、発明王トマス・エジソンなど異色の人物も出てきます。

 日本側からは伊藤博文、大隈重信など維新の元勲をはじめとして、小村寿太郎、幣原喜重郎、吉田茂など歴代の外交官、栄一の同志として終始その活動を支えた多くの財界人にまじって、友愛会という名で労働組合関係の活動を取り仕切っていた、鈴木文治の顔も見えます。こうした数え切れない人々が、アジア・太平洋の歴史という壮大な舞台の前で活躍するのです。

 結論から言えば、もちろんこのドラマは悲劇でした。明治時代の末期、すでに日米の間にかげりをもたらした不気味な黒雲は、栄一が心配したとおり、時とともに着実にその影を広げてゆきました。いかなる人の努力も、巨大な運命の流れを変えることは出来ません。栄一が亡くなる昭和6(1931)年を境として、日本は無謀な戦争の中に、加速度的にのめり込んでゆくこととなりました。

 勉強の結果は『太平洋にかける橋』と題して480ページの本 1)となりましたが、この作業の基盤となったのは、あくまでも『渋沢栄一伝記資料』(本編)58巻でした。デジタル化以前のことで、58冊の大型で大変重い本を事務所から毎日数冊ずつ家庭に担ぎ込んで、夜の目も寝ずに読みふけり、ノートをとるのは並大抵の労力ではありませんでした。

 とはいっても、第58巻に提示された索引の素晴らしさと完璧さには今でも大変感銘しております。もしあの索引がなかったら、私の様な素人は、大量の資料の山に迷い込み、道を見失い、栄一の活動を巡る物語の筋立て自体が混乱してしまうところでした。

 1年以上にわたっての七転八倒の苦しみの結果は、思いがけない勉強をさせて頂くこととなり、心から感謝しています。明治・大正の日本の歴史を新しい角度から見ることが出来ましたし、渋沢栄一という人物を、生まれてはじめて身近に感ずることが出来るようになりました。渋沢栄一伝記資料刊行会の会長をおつとめになった矢野一郎氏からも、「今度のこの本を読んで、はじめて栄一翁の真髄に触れることが出来たような気がした。雅英氏の名筆も驚くべきものであるが、それにもまして、よくも曾祖父の偉大さをきわめて客観的に、公私両面から描き出されたと、このことに対し、満腔の敬意を表したい。」という過分のお言葉を頂戴したことはうれしく光栄なことでした。

 デジタル化が完了していればもっと多くの事実を探り当て、栄一の国民外交についてより大きな記録を残すことが出来たかもしれません。しかし反面、よく整備された索引があれば、パソコンによる検索なしでも、ある程度までの作業が出来ることを知らされるとともに、『伝記資料』そのものが持っている独特の力に触れることが出来ました。それは膨大な資料の背後に、いつも息づいている栄一の、たぐいまれな存在感に圧倒され続けた結果だったのかもしれません。

(5) 渋沢栄一とインド

 昨年(2011年)の12月5日、国際文化会館がインドと日本の関係について、大型のシンポジウムを開催され、私にもお声がかかって、渋沢栄一とインド、特にタタ財閥との関係について発表するようご依頼を受けました。早速『伝記資料』の検索を開始し、明治20年代の日印両国の一流企業家たちの出会いにまつわる報告をまとめることが出来ました。これは日本の繊維産業の成長と、それに伴う海運業への進出、そしてその結果としての英国との確執、さらには日本側の工業化の進展によって起こった貿易摩擦など多くの側面を持った多彩な物語で、その渦中で、いつものように真剣に活動する栄一の姿を、『伝記資料』がいろいろな角度から鮮やかにとらえていることを知り、たいへん感銘を受けましたので、今日のお話の最後としてその内容をご紹介してみたいと思います。

 物語の発端は、明治24(1891)年、R.D.Tataと云う人の来日にさかのぼります。当時のインドは英国の植民地で、中国、日本など東アジアとの貿易や海運の殆どが英国の支配下にありました。一方維新後20年余り、なんとか独立を守ってきた日本は、石炭、造船、鉄道、電力、紡績、人造肥料など、当時の非西欧地域では外に例がない全面的な近代化を進め、かなりの成功を収めていました。

 そうしたなかで、タタ商会は海運業に進出し、日本への綿花の輸出を手がけ、日本からは石炭その他の物産の輸入を取扱うことで、この広大な海域に対する英国の独占に風穴を開けたいと考えはじめていました。一族のそうした意図を受けてR.D.Tataは神戸に支店を設置し、東京では渋沢栄一をはじめ有力企業家多数と交流を開始しました。

 いっぽう日本側も明治22(1889)年頃から、インドにおける綿花の取引の市場調査を行っていましたが、英国のP&O汽船会社が要求する海上運賃が余りにも高く、また帰りの船を使ってのインド向け輸出品の集荷が難しいなど色々な障害があって、R.D.Tata氏の訪問は具体的な成果を生むには至りませんでした。

 ところがタタ商会はなおもこの構想に執念を燃やし、明治26(1893)年5月には、創設者であるジャムシェトジー・タタが、栄一と膝詰め談判を行いたいという触れ込みで来日することになりました。栄一は日本郵船や紡績連合会の幹部など、多くの企業家を招いて盛大な歓迎会を催しましたが、その時の経緯について、星か岡茶寮で開かれた貴族院議員有志による研究会の席上、次のように報告したと『竜門雑誌』には記されております。

 「明治二六年の夏になりまして、更に其ターター一族の首領とも申すへきゼー、エン、ターターといふ人か又日本へ来遊致しました、(中略)前のアル、デーといふ人から見ると、年配でも御座ゐますし、又実力も余程ある様子て御座ゐます、経験もあり思慮もある人さうに聞へまするし一昨年のアル、デーは充分な相談か出来なむたか、今度ゼー、エンか来たならば真向徴塵にひとつ論してやらふと私は実は楽しみ居りました」(『渋沢栄一伝記資料』第8巻 p.155)。こうした発言は日本の近代化に全力を挙げて取り組んでいる53歳の栄一の、溌剌たる雰囲気を伝えています。

 席上ジャムシェトジー・タタは英国による海運の独占について語り「悲しゐかな、今印度との航海は御承知の通彼阿といふものが全権を持つてやつて居ります、(中略)運賃は何といふても決してまけませぬ、(中略)今度こちらへ来るに付ては日本人と御相談を仕合て、どうぞひとつ爰に[新しい]航海でも開くといふ道はなゐかとまで熱心に考へて居るのであります、(中略)もし貴君が許して呉れるならば二人で船を出して、(中略)彼阿とひとつ競争をやつて見るといふことにしたならば、少なくとも二割以上下げても此航海業は出来る、或は雇船をして営業を致しても損をする気遣ひはあるまゐと思はれます。もし貴君が貴君の資力を以て私と組合つて新航路を開くとしては如何でござゐませうか」(『渋沢栄一伝記資料』第8巻 p.156)と云って単刀直入に栄一の決意を迫りました。

 これをきっかけに商談は急に進展し、翌週には郵船会社の森岡社長宅で、その翌日に栄一の兜町邸で、栄一や紡績連合会の朝吹会長を交えて精密なコスト計算に基づく具体的な検討が行われ、驚くほどの速度で準備が進み、早くもその年の11月7日には、ボンベイ航路の第一船として郵船会社の広島丸が、神戸港を出港しました。当初は両国がそれぞれ各一隻を拠出して、6週間に一航海という目論見でしたが、やがてタタの所有船2隻、郵船会社所属船2隻、計4隻が3週間に一航海ずつ運行することとなりました。

 とは言っても各関係者の間での利害が錯綜し、ここまで来るには栄一をはじめ関係者の非常な努力が必要でした。たとえばタタにとっては、たとえ自社の船であってもP&Oの市場支配に挑戦することのリスクはきわめて大きく、一方の日本郵船としても、当時7つの海を支配する英国のP&Oと正面切って事を構えるのは社運に関わる大問題であるばかりか、もし十分な積み荷が集まらなければ採算割れの危険を背負うわけで、紡績連合会に対して輸入綿花の全量取り扱いの保証を要求してきました。これに対し連合会の側は、大手業者はともかく、多くの中小企業にとって海上運賃は事業の死命を制する大問題であり、日本郵船に対して全量輸送を約束することは困難でした。

 当時の栄一は海運や紡績の経営に直接関与していたわけではありませんが、10年ほど前の明治18(1885)年には共同運輸と三菱海運との和解による日本郵船の発足に深く関与しましたし、明治15(1882)年には大阪紡績の設立を推進したほか、銀行集会所(のちの銀行協会)の会長や東京商法会議所(のちの東京商工会議所)の会頭などをつとめ、財界のとりまとめ役としてその実績や人柄が高く評価されていました。このときの折衝も、そうした背景を持つ栄一の、誠意を込めた斡旋によってようやく成立に漕ぎつけたものと思われます。

 しかしインドの企業であるタタを巻き込んでのボンベイ航路の開設は英国側の激しい反発を招き、P&Oは採算を度外視した運賃の大幅な値下げによる妨害の脅しをかけてきました。このときの経緯を栄一は次のように述べています。「此競争は明治二十六年から七年へ掛けてのことで(中略)ピー・オー会社の香港支店の監督といふ職にあるジヨウゼフと云ふ人が特に日本に出張せられて(中略)私に面会を求められたから私は兜町の事務所に於て接見した。(中略)ジヨウゼフ氏は口を開いて此航路を日本にて飽迄も競争すると云ふならばピー・オー会社は勢ひ会社の全力を尽して抵抗をしなければならぬ。何となれば孟買と支那との航路は言はゞピー・オー会社の畑である。既に他人が己の畑へ鍬を入れゝば之れに応戦せざるを得ぬことになる。それでも競争を継続するかと云ふ文切形の脅し言葉でありました。私は其言に対して答へて言ふた、それは英吉利人の如き紳士の口にすべき言葉ではない、左様なる恐喝手段を以て吾々に臨まれるに於ては、我々は決して服従は出来ませぬ、貴方で所謂喧嘩腰を以てなさるなら我々は少しもそれを妨害はせぬ、又恐怖もせぬ、(中略)只今ジヨウゼフ君の言はれた如く日本の郵船会社にても只ピー・オー会社の脅迫が怖いからそれで此航路を罷めると云ふことは決して出来ぬと思ふと申したことを、今も記憶して居ります。」(『渋沢栄一伝記資料』第36巻 p.27)

 ところが翌明治27(1894)年には日清戦争が起こり、極東の情勢が大きく変わりはじめ、おそらくはそれが背景となって、英国の国策会社であるP&Oが一方的に紛争の矛を収め、それ以後日本の紡績業は日進月歩の勢いで発展することになりました。

 しかしその結果が、英国ならびにインドとの貿易摩擦に発展することを、日本側ははっきりと予想していなかったようです。当時の日本の紡績業は、技術革新によってインドをはじめ各国産の原料綿花を混合使用し、良質の綿布の産出が可能となり、インド国内はもとより東南アジア、中国、イスラム圏諸国などアジア全域の市場を席巻する勢いを見せていました。これに対し、紡績業の発祥の地として世界に覇権を唱えてきたランカシャーを中心とする英国の繊維産業は、第一次世界大戦中をピークとして衰退が始まっていました。

 大正14(1925)年11月と12月の『大日本紡績聯合会月報』は『ボンベイ・クロニクル』紙に掲載された長文の社説を掲載して「女工哀史」で知られる若年女性労働者の搾取を基盤として、国家的な金融支援、さらには各種の輸出補助金を提供する、日本独特の攻撃的な貿易政策を強く批判しました。そして当時たまたま日印協会の会頭を務めていた栄一は繰り返しこれに反論しなければならなくなりました。

 明治以来の日本の近代化が目覚しい成果を上げたことには疑いがありませんが、その背後では自国の経済活動が海外に及ぼす影響については、不思議なほど鈍感だったように思われます。日本は資源を持たない貧乏国だという自意識に苛まれ、技術や生産方式の変革によって競争力を獲得した商品についてはたちまち集中豪雨的な輸出を展開するというパターンは、近代日本が繰り返し見せてきた行動様式であって、経済的な倫理観を売り物にしてきた栄一ですら、その後の深刻な結果を予想していたかどうかには疑問が残ります。

 第二次世界大戦後、1970年代の東南アジアが堰を切ったように流入する日本品の洪水に見舞われ、都市の夜空が軒並み日本の会社のネオンに彩られて住民の反感を買ったのは記憶に新しいところです。その結果として起こった日貨排斥や田中角栄首相訪問へのデモが、国際交流基金設立の端緒となったことは喜ぶべき事でしたが、問題はさらに米国にも波及し、長い間不毛な貿易摩擦に苦しむこととなりました。

 この件と直接関係はありませんが、明治35(1902)年、栄一は米国と西欧諸国を歴訪し、帰途はポートサイドから神奈川丸という船で帰国の途に着きました。この船には美濃部達吉、松村松年、巌谷小波など有名人多数が同船しており、楽しい船旅となりました。そしてたまたまシンガポールから乗船したてきたのが「官命を帯びて」インドの古美術の調査旅行を終えたばかりの天心・岡倉覚三でした。同年10月の栄一の日記は、シンガポール出帆後天候が崩れ、夜には驟雨となるなかで、22日には船室で岡倉と雑談した事を伝えていますが、内容については残念ながら記載がありません。因みに天心はこの翌年「ASIA is one(アジアは一なり)」で始まる名著"The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan"(『東洋の理想』)をロンドンで発刊しています。

(6) おわりに

 雑然としたお話になりましたが、何かのご参考になれば幸せです。ちなみに戦後の東南アジアでの日貨排斥に関する部分以外は、すべて『伝記資料』から検索しました。栄一個人の日々の生活から、企業活動のあれこれ、大英帝国の覇権に一矢報いようとするアジアの国ぐにの心意気、さらには緊迫を深める日米関係に至るまで、この資料集が伝える歴史の広さと深さには驚くべきものがあります。

 48,000ページを超える情報群から目的の記述に辿り着くのは容易ではありません。また時代の進捗に従って言葉遣いが変わるなど、必ずしも読みやすい文献でもありません。しかしその反面で、文章の背後から伝わってくる時代の息吹は優れて魅力的です。また読み進んでゆくうちに、渋沢栄一本人が現れ、直接語りかけてくれたという確かな手応えを感じることもありました。「『渋沢栄一伝記資料』デジタル化の意義」について、そうした感想を申し上げてこのプレゼンテーションを終わらせていただきたいと思います。ご静聴を心から感謝いたします。


1) 『太平洋にかける橋 : 渋沢栄一の生涯』(読売新聞社, 1970.12)復刻版(不二出版, 2017.08)英語版(Renaissance Books, c2018)あり


初出:『企業と史料』第8集(企業史料協議会, 2013.05)p.32-40
写真:『渋沢栄一伝記資料』全68巻
企業史料協議会の許諾を得て一部改稿の上転載。

掲載:2023年3月23日