4. 奇蹟の時代 / 渋沢雅英

【2010年2月13日 埼玉グランドホテル深谷にて】

写真:『渋沢栄一伝記資料』[ はじめに / (1) 生い立ち / (2) 改正掛 / (3) 民間企業の経営 / (4) 妻の成長 / (5) 官尊民卑打破 / (6) エリート企業家の誕生 / (7) 地方分権 / おわりに ]

○ はじめに

 渋沢栄一の170年目の誕生日という記念すべき日に、その生地である深谷にお招きを頂き、大変有り難く思っております。

 十数年前から渋沢栄一記念財団という組織の運営のお手伝いをすることとなり、栄一の人生やその業績について勉強する機会が多くなりました。なにぶんにも非常に大型の人物で、その活動は、企業の設立運営といういわば表芸にとどまらず、国際関係、福祉、教育、文化事業など国民生活のほとんどすべての分野を網羅しており、なかなか一筋縄でご説明できるような対象ではないことを痛感させられております。

 こうした人物を正しく評価し、その事績を誤りなく後世に伝えるためには、まずもって残された資料の本格的な整備が必要であると云う考えから、7年ほど前から沢山の人手を投入して、栄一の人生とその活動を網羅したデータベースの構築に努力して参りました。その成果の一つとして、最近では、幕末から明治、大正、昭和に至る長い年月の間、栄一が、毎日何をしていたか、どのような会合に出席し、誰に会い、どんな意見を述べたか等、かなり精度の高い情報を、瞬時にしてパソコンの画面に映し出すことが出来るようになりました。

 91年に及ぶ栄一の長い生涯には、日本の近代史と表裏をなしている部分が多く、このデータベースなどの活動を通して、昨年、実業史研究情報センターがLibrary of the Yearの優秀賞を受賞するなど、多方面から注目されております。またそうした作業を通して、深谷市近郊の農村で生まれた栄一とその妻が、時代の流れに積極的に関与して、その人生をつくって行く経緯が、かなり鮮明に見えるようになりました。今日は市役所のご問い合わせに対して、「奇蹟の時代」という、やや風変わりな言葉を演題として提案させて頂きましたが、その真意は歴史という文脈のなかで、故人の人生と、その優れた資質の幾つかを振り返ってみたいという趣旨でございます。

(1) 生い立ち

 170年前の1840年、天保11年2月、栄一が誕生した時点では、日本は家康以来の幕藩体制の支配のもとにありました。時の将軍は12代徳川家慶、栄一の誕生と同じ頃、江戸の町では「金さん」で有名な遠山左衛門尉景元が北町奉行に就任するなど、時代劇を見るような古いシステムが延々と続いていました。もしこの状態がさらに継続するようであれば、渋沢栄一も幾世代前からの祖先と同じく、この土地の農村で生き、働き、死んで行く運命にあったものと思われます。

 天保という時代は1830年から44年まで14年間つづきますが、一つ興味深いことは、古い社会状況の存続にもかかわらず、各地の藩で、のちに近代日本の形成に重要な役割を担うことになる多くの人材が生まれていたという事実です。例えば天保元(1830)年には、長州で、後に勤王倒幕の思想的中核を担うこととなる吉田松陰が誕生しました。天保4(1933)年には桂小五郎、翌5(1835)年には豊前中津藩で福沢諭吉、6(1936)年には長州で井上馨、土佐で坂本龍馬が誕生し、8(1937)年には最後の将軍として幕府の崩壊を自ら主導することとなる徳川慶喜が江戸小石川の上屋敷で生まれています。天保9(1838)年には大隈重信、10(1839)年には高杉晋作、そして11(1840)年には本日の主人公である渋沢栄一が、当時は武蔵国榛沢郡と呼ばれていた農村地帯に生を受けることとなりました。12(1841)年には伊藤博文、13(1842)年には大山巌と、このように並べてみると天保という時代が、革命家を量産した不思議な時代のようにも見えて参ります。

 一方国外では栄一が生まれた天保11(1840)年、中国でアヘン戦争が始まり、2年後の1842年には清国が英国の要求に屈して香港の割譲を受け入れるなど、西欧諸国による東アジア全域の植民地化が最終段階に入ろうとしていました。それは日本にとって重大な脅威となるはずでしたが、国内ではごく一部の先覚者をのぞいて、このような国際情勢についての知識もなく、それに対応するための戦略もほとんど見られませんでした。にもかかわらず日本が、中国を始め他の多くの国々のように、西欧による侵略を受ける事がなかったということは、信じられないほどの、ほとんど奇蹟と思われるほどの幸運でした。

 やがて嘉永6(1853)年、ペルリ提督率いる黒船が浦賀に来航しました。当時13歳だった渋沢栄一は、この時のことを国中がひっくり返るような騒ぎになったと述懐しています。しかし結果から見れば、黒船の到来は日本にとって予期せざる幸運をもたらした面もありました。ひとつにはこれが日本人を鎖国による長い沈滞から一挙に目覚めさせたことです。事実これを機として全国的な規模で燃え上がった政治的な激動は、やがて体制そのものを吹き飛ばしてしまうこととなりました。そしてもう一つは、当時ヨーロッパ諸国によるアジアへの侵略を必ずしも容認していなかったアメリカが、日本に対してにわかに積極的な関与を始めたことは、それ以後の西欧型の侵攻を牽制するという、日本にとって歓迎すべき展開をもたらしたと思われることです。

 安政5(1859)年、12月7日、18歳になった栄一は、隣村に住む一歳年下の従妹で、尾高千代という女性と結婚します。千代は天保12(1841)年11月23日、下手計村という農村で、父尾高勝五郎、母八重の三女として生まれました。生まれつき色白で余り頑健ではありませんでしたが、幼い頃から家業の養蚕、糸取り、機織り、裁縫等、当時の女性の仕事一般のほか、季節季節には畑に出て、農作業にも取り組んでいました。

 3年後の文久3(1863)年には長女が生まれ、歌子(宇多子)と名付けられました。しかしこの年23歳となった若い父親は、娘の誕生をよそに、志を同じくする農村青年たちと結束して、幕藩体制の転覆を目指して武力蜂起を計画するような過激な青年となっていました。幸か不幸かその計画は、間際になって挫折し、いわば命拾いをした栄一は、幕府の追及を逃れるため、両親や妻子を残して11月8日に故郷を離れて京都に亡命します。生まれたばかりの娘を抱えた妻の千代は、兄の尾高惇忠にも諭されて、国の変革を願う栄一の志を理解し、かいがいしく旅立ちの世話をし、「お留守は努めてよく守りますので、お心やすくお出かけ下さい」といって、無期限で、しかも危険がいっぱいの京都に向かう夫を見送ったと云われています。

 当時の京都は革命の温床で、体制の変革を志す若い武士達との交流をすすめる一方、思いがけない経緯から、のちに将軍となる一橋(徳川)慶喜が主宰していた一橋家という大名の家に仕官し、その家の資産の運用や、歩兵の募集など戦力増強のプログラムに参画します。栄一は生家で習い覚えた農業経営の知識や経験を生かして、この分野でかなりの成果をあげ、それが慶喜の目にとまります。

 その頃栄一から千代に送った20通を超える手紙が残っていて、時代の変化に翻弄されながらも懸命に生きる若い夫婦の姿と、そうした中で栄一が見せる着実な成長ぶりをまざまざと伝えています。最初の手紙は元治元(1864)年10月5日付で、一橋家に仕官して9ヶ月しか経っていませんが、栄一の才幹が早くも認められ、歩兵取り立ての業務で江戸に出張を命ぜられました。なんとか旅程をやりくりして埼玉に行き、郷里に近い宿根という部落で、乳飲み子の歌子を抱えた千代と、束の間の面会を果たします。形の上では一橋家の威光を背負ってはいても、過去の過激な反幕活動への疑いはなお根強く、本人はともかく、家族にもどのような圧力がかかるかわからないと云う不安な状況の中での慌ただしい面会で、栄一の手紙は「さぞさぞ残り多きことと存じ候」という文言で始まり、留守を預かってくれている千代への深い感謝を縷々述べています。

 歩兵取り立ての仕事は成功したようで、慶喜公からとくにほめられ、10日あまり後の10月17日の手紙では「明年になり候はば京都へ相のぼせ申すべく候」という希望を述べています。そして「万事一人にては不自由にて、女房の有難きと申すこと、別して承知いたし候」と述べた上で、次は男の子がほしいので早く来てほしいと、惚気とも真情ともつかないことを云っています。家族呼び寄せの件はやがて上司にも正式に認められたらしく、慶応2(1866)年1月の手紙では3月頃にはこちらに来てほしいと云っています。

 ところがその年の6月には第二次長州征伐が始まり、京都での蜜月への栄一の希望は挫折します。8月の手紙では「はからずもこのたび長州への御出陣お供仰せつけられ、これよりまかりこし候間、思う事もとげやらず、残念ながらしばらくお留め申し候」と伝え、手紙と一緒に一振りの懐剣を送っています。しかし7月20日に将軍家茂が亡くなったことを機に長州征伐停止の勅令が出され、栄一の参戦はなくなりました。しかし将軍継承を巡って、政局はいよいよ重大な局面にさしかかります。

 慶応2年の暮れになると、思いがけないことに、今では将軍となった慶喜の直接のお声掛かりで、フランスで行われる万国博覧会に、日本を代表して参加する将軍の弟、徳川昭武の随員として渡欧することとなりました。そして翌慶応3(1867)年1月の手紙では「まことに思いがけなき事にてさぞさぞおたまげなさるべく、さりながら月日のたつは早きものに候へば、いずれそのうちお目もじいたすべく」と慰め、お餞別のつもりか、珊瑚の玉や紙入れなどを贈っています。

 当時は海外渡航自体が希有の機会であり、他の随員の多くが西欧文化への拒絶反応を克服できないでいる中で、栄一はこの得がたいチャンスを積極的に活用し、ヨーロッパの先進諸国の社会経済の仕組みを観察し、理解すべく、熱心に努力しました。そこでは階級差別はおおむね克服され、官と民の間にも、日本とは全く違ってほぼ対等な関係が定着していました。そしてとくに強い印象を受けたのは、政府や自治体が、民間の資金を集めてガスや水道などのインフラを整備し、その使用料収入を投資家に還元するといういわゆる「合本主義」が円滑に機能していることでした。わずか1年余りの滞在でしたが、栄一はそうしたシステムの見聞につとめたほか、代表団のパリでの滞在の費用の一部を捻出するため、フランスの国債を始め株式や債券の売買を行うなど、西欧の経済の仕組みを実地に体験しました。

 当然ながらフランスでの栄一はちょんまげを落とし、洋服を着るようになりますが、その写真を見た千代からは、珍しく強硬な手紙が来ます。千代は筆の立たないことを恥じてか、京都では栄一のたびたびの便りにもはかばかしく返事を書かないので、栄一が心配したり、いらだったりしていましたが、「お前さまは先頃と事変わり、いかなるお髪着き、見る目もつらきように存ぜられ、まことにこの事ばかり心ならず存じ候。」と夫の断髪をとがめ、「せめて心慰めのためと思し召し下され、もとの御形にならせ召されよう願い上げ候。」と京都時代とはうってかわった直截な要求を突きつけています。そして多少気がさしたのか「かえすがえすも時候おいとい、ご奉公大切におつとめ遊ばし、一日も早くお帰り遊ばすよう念じ上げ候。何となく心にかかり候ことばかりござ候へば、ぜひぜひ一度御目もじいたしたく朝夕念じ候へども、思うに任せぬ事ばかりにて、困りいり候。めでたく。千代拝、渋沢旦那様」と結んでいます。

 一方国内では、栄一の出発から半年を過ぎた慶応3年10月以降、徳川慶喜が大政奉還と王政復古に踏切りますが、薩摩長州など西国雄藩による倒幕への圧力に抗しきれず、翌年1月からの戊辰戦争の敗戦を経て250年余り続いた幕藩体制は瓦解し、明治政府が誕生します。故国でのこのような予期せざる変化に促されて、明治元(1868)年の年末、昭武一行とともに帰国した栄一は、旧主徳川慶喜が引退している静岡に居を構え、頭取という立場で商法会所という組織を立ち上げました。フランスでの見聞を生かし、徳川家が保有を許された資産の効率的な運用と地場産業の振興を目指し、今でいう株式会社方式による運営を始めようという計画でした。血洗島に残した千代と娘を呼び寄せ、文久3(1863)年、革命の嵐が吹き荒れる中で、あわただしく別れてから約5年ぶりで、ようやく親子水入らずの暮らしに戻ることとなりました。

 翌明治2(1869)年、千代とこの年6歳になる長女の歌子は、中瀬から船で利根川を下り、さらに右折して江戸川を下って東京経由で静岡に旅をしました。歌子の思い出によれば、幕府の瓦解後ではあっても、人々は前将軍の側近としての栄一とその家族に対しては、それなりの敬意を払い、道筋の宿屋や運送業者などの待遇が非常に丁重なことに、母親もろとも大変驚いたと云うことです。

 ところが思いがけないことに同年には、栄一は東京の新政府から名指しでスカウトされ、民部省租税正という要職に任ぜられ、次いで改正掛という新しい部局の長に任命されました。改正掛は、栄一たちの献策に基づいて設置されたもので、その任務は、近代国家形成の青写真と、そのためのロードマップを描く事にあり、いわば経済の改革と近代化の司令塔とも言うべき重要な部局となりました。栄一のように農村の出身で、明治新政府とも全く関係のなかった29歳の青年を、1年余りのフランスでの経験があったとしても、このように枢要な地位に抜擢したことは、変革実現への政府の強い意志と、そのためには旧来の組織に縛られないという、この国の社会としては異例の柔軟さを示すものでした。

 その背景には、中国で起こったアヘン戦争以来の顛末や、黒船の来航に触発された強い危機感があったものと思われます。西欧諸国による侵略への脅威は、日本人の間に、それまで余り実感されていなかった「国」という意識を呼び覚まし、国民国家形成への契機となりました。とくに政権の交代を推進した若い武士達は、万一近代化に失敗すれば、国の独立を失うことになるという強い危機感を共有しており、それが明治政府の、すぐれて未来指向の政策となって実を結ぶこととなったものと思われます。

 結果として栄一の家族は静岡での生活をたった数ヶ月で切り上げ、東京に移り、千代は政府高官の妻として、これまでの農家の嫁という立場とはまったく違う新しい環境の中で生活することとなりました。わずか5年余り前、栄一が逃げるようにして京都に出発するまでは、全国の農村の何処にでもみられる、平均的な若い夫婦であった二人の生活に、このように大きな変化が相ついで起こること自体、時代の変革の大きさを示すものであり、元々引っ込み思案だと言われていた千代も、こうした勢いの中で、栄一の仕事を支えながら、新しい人生を切り開いてゆくこととなりました。

(2) 改正掛

 改正掛は近代化を実現するための緊急の計画を統括するため、特命によって省庁横断的な形で設けられた部局であり、財団のデータベースによれば、改正掛の責任者として渋沢栄一が関わった案件は、30項目以上にのぼっており、近代国家形成の基盤となる事案の大半を網羅していました。たとえば廃藩置県とそれに伴う藩札の整理という難問に対しては、改正掛は、時価による交換を提案し、そのために必要な合計1億円の紙幣の印刷を、ドイツに発注したりしています。ちなみにその紙幣は明治通宝札、通称ゲルマン紙幣とよばれ、日本銀行の貨幣博物館にその実物が今も展示されています。

 またさらに困難だったのは、代々世襲によって保証されてきた収入の道を、突然失うこととなった武士階級の生活の支援という課題で、まかり間違えば、生まれたばかりの新政府を転覆させかねない困難な問題でした。強い危機感に突き動かされた栄一は、何日も続けて、ほとんど徹夜の状態で、数千枚に及ぶ緊急対策の要綱を書き上げて提出したということです。30代初めの若さとは言え、そのエネルギーと能力は驚嘆すべきものだということで、政府内部でも広く認められ、伊藤博文、井上馨、大隈重信などトップの指導者達との間に、親密な友情と信頼を作ることが出来ました。

 このように、改正掛での仕事は栄一に、国の近代化のために不可欠な知識、経験、そして人脈をもたらし、かつ、政府の高官として、恵まれたキャリアの可能性をも拓いてくれました。しかし渋沢栄一は明治6(1873)年、敢えて民間人として活動する道を選択し、政府の役職を辞任し、発足したばかりの、日本初の西欧型、民間金融機関である第一国立銀行の総監役に就任しました。そしてそれ以後60年近くにわたる長い生涯を、民間人として活動を続け、官界に戻ったり、政治の世界に関与したりすることはほとんどありませんでした。

(3) 民間企業の経営

 しかし、近代的な民間企業の立ち上げとその運営は、決して容易な仕事ではありませんでした。栄一が最初に責任を持つこととなった第一国立銀行自体、設立直後にパートナーの小野組が破綻し、危機的状況に陥りますが、栄一の必死の奔走により 最終的に2万円弱の損失でなんとかこれを切り抜けることができました。

 日本最初の本格的製造業となった王子製紙(設立当時の名称は抄紙会社)は、紙幣や国債、新聞雑誌等の需要を見込んで、明治6(1873)年、栄一自身の発意で設立されました。資本金は最初15万円で、外国人技術者を高給で雇い、機械はすべて輸入し、明治8年(1875)年、王子に工場が完成しました。ところが技術上の問題を克服できず、いくら努力しても商品として売れるような紙ができず、栄一は苦境に立たされます。初年度の決算では4万円の損失を計上し、その後も毎年欠損が続きます。

 数年後に大川平三郎が渡米し、技術を習得して帰国、ようやく利益が出るまでに10年の月日がかかりました。その間の出資者への説明には、さすがの栄一も進退窮まったと言われています。しかし株主達は、栄一の誠実さと目的意識の正しさを信じ、長期の無配に耐えたうえ、損失補填の為の増資にも応じ続けました。そして新技術を基盤として漸く営業が可能となり、やがて王子製紙は日本を代表する会社に成長して行きます。

(4) 妻の成長

 一方郷里の村を離れて間もない千代は、当初は高級官僚の夫人、その後は財界の中心的指導者の妻として、田舎では想像もしていなかったような新しい世界で生きなければならなくなりました。かつては、とかく心配性で、京都やフランスから次々と送られてくる夫からの手紙にも、あまり返事を書こうとしなかった千代も、東京に移ってきてからは栄一の運命の変化と、その人生の発展を目の当たりにして、覚悟を決めたかのように、積極的に夫の仕事に協力するようになったようです。

 長女歌子の思い出によれば、あるとき三野村利左衛門という三井の大番頭の肝いりで、三井家の人々が総出で、栄一と千代をもてなすための宴会が行われました。相手は日本一の大金持ちの事で、千代は礼儀作法もわからず、着て行く着物にも苦慮しましたが、結局のところ、地味だけれども高級なお召しを誂えて、夫と共に堂々と出席したと云う事です。相手の身分や富に影響される事の少ない栄一の人間の大きさと、妻への愛情と信頼の深さが、千代に勇気を与えたものと思われますが、千代の方にも、いざというときには自分を捨てて栄一に協力し、立派な演技を見せる勇気が備わっていたとも言えるでしょう。

 振り返ってみれば、23歳の栄一が、幕府の追求を逃れて慌ただしく京都に向かった文久3(1863)年から、一橋家での仕事、フランス渡航、そして大蔵省を退任する明治6(1873)年まで、わずか10年弱しか経っていませんが、その間の二人の生活の変化と成長には驚くべきものがありました。栄一は日本の近代化のオーガナイザーとしての高度な知識や経験、そして貴重な人脈を手に入れましたし、千代もまた驚くほどの敏感さで、夫の仕事の意味と広がりを理解し、妻として、また協力者として決定的な役割を果たすことができるようになりました。

 千代の生まれた尾高家は、兄の惇忠をはじめ、大甥でのちに東大法学部長を務めた法哲学者の尾高朝雄、著名な社会学者となった邦雄、音楽家の尚忠ほか数多くの一流の人物を生むことになる、優れた知的遺伝子を持つ家族でした。そして幕末の切迫した時代に、このようなすぐれたDNAを持つ家系が、何気なく北埼玉の農村に存在していたという事実は、それ自体が特筆すべき事で、そうしたなかに、のちの日本の、奇跡といわれる近代化の知的、精神的基盤が見られるのではないかと考えております。

(5) 官尊民卑打破

 明治11(1878)年には栄一は東京商法会議所の会頭となり、また明治10(1877)年以降は、択善会という銀行業者のネットワークの形成に関わり、明治13(1880)年には東京銀行集会所が設立され、後に会長をつとめることとなりました。その意図のひとつは、民間の企業人たちが共通の問題に対しては共同で取り組み、必要に応じて政府にも働きかけて、経営環境の改善につとめることが出来るような、民主的で近代的な仕組みをつくることでした。そしてもう一つは、そうした努力を通じて企業の経営者たちに、変わり行く政治経済の現況や、国際関係など国が当面している問題を理解してもらうとともに、独立の精神を持って、自分たちの運命を切り開くような気概を持ってほしいという願いもありました。

 しかし、当時の企業人は、経営者と被雇用者とを問わず、多くが依然として江戸時代から引き継いだ階級差別の気風に染まっていて、自分の運命に主体的に関わろうという栄一の提案に対しても、はかばかしい反応を示そうとしませんでした。データベースに見られるその当時の栄一の活動の詳細からは、連日行われる各種の会合のなかで、ほとんど無限と思われる時間とエネルギーを費やして、懇切丁寧に説得を重ねる、栄一の印象的な姿が見られます。

 一方こうした努力の一環として栄一が多くの友人知己を自宅に招いて歓待する機会もふえましたが、その際の食事の準備や余興の手配などは、すべて千代の才覚に任され、千代もまたその場の意味と重要性を良く理解して適切な対応をし、栄一にも、また来客にもたいへん喜ばれたという事です。その結果浅野総一郎、益田孝、大倉喜八郎を始め、当時経済界の新進の指導者と目されていた人々の多くが、千代の人となりと能力を高く評価し、交友を楽しんだと伝えられています。女性が表に出る事が少なかったと考えられる時代に、それは栄一夫妻のかなり進歩的な生き方の一端を示していたのかもしれません。

 ところが残念なことに、明治15(1882)年の夏、東京にコレラがはやり、栄一一家は急遽、王子飛鳥山に避難しましたが、本来余り頑健とは言えなかった千代は、7月13日突然発病し、翌日の夕方には早くも41歳の若さで息を引き取りました。この年の4月、長女歌子が新進の法律学者穂積陳重と結婚し、その花嫁姿を殊のほか喜んで、これで自分が早死にしてもあとの心配がなくなったと漏らしたという事ですが、わずか3月後にその予感が現実のものとなり、栄一を始め明治3(1870)年に生まれた次女琴子、5(1872)年生まれの長男篤二を含めて、一家の嘆きは非常なものでした。

 千代の葬儀には、700人を超える多くの会葬者が詰めかけ、当時の女性のものとしては異例の規模となりました。栄一はその死を深く悼み、谷中の墓地にかなり大きな墓石をたて、当時日本一の文章家と評判が高かった三島中洲氏に懇請して、心のこもった漢文の立派な墓碑を執筆して頂きました。

(6) エリート企業家の誕生

 激動の時代を共に歩んできた妻千代の死を深く悲しみながらも、日本の近代化と経済成長を目指しての栄一の活動は続きます。第一国立銀行を拠点として、栄一は生涯を通じて約500の会社の設立と経営に参画しました。そしてこれらの企業は、製紙から紡績、鉱山から製造業、鉄道から海運、理化学研究所など公共的な事業から生命保険、ホテルから劇場、更にリゾート開発に至るまで、生まれたばかりの日本の近代産業のすべての分野を網羅していました。

 栄一は、新しい事業を興そうとするすべての人々を惜しみなく支援しました。彼はこれらの企業家たちに、銀行からのローンの組み方や、正確な財務諸表の作り方などを指導しました。事業の立ち上げに当たっては、しばしば発起人名簿に名を連ね、開業のための資金の一部を自ら投資しました。しかし、その結果会社が無事設立され、経営が順調に進むのを見定めると、多くの場合、自分の持ち株を売却し、その資金を次の新しい企業の支援に充当しました。企業を自分のものとして、冨の蓄積を目指すという発想は希薄で、もっと別の目的、即ち日本の近代化そのものの推進者ないし支援者の役割に徹していたように思われます。

 このように社会の改革と近代化を目指しての地道な努力の結果、時が経つにつれて当初栄一が希望していたとおり、企業人達自身の意識も変わり始めました。昔の商法講習所、当時の東京商業学校や、新しく創立された早稲田や慶応など大学出身の経営者の数も増え、「財界」という名のエリート企業人の集団が育ち始めました。それは、長い間官尊民卑の重圧を背負ってきたこの国に、ようやく民間人による新しいパワーセンターが生まれたことを告げるものでした。

 明治36(1903)年のある朝、栄一は、やがて日露戦争で陸軍参謀総長として活躍する児玉源太郎参謀本部次長の突然の訪問を受けました。児玉は、ロシアとの差し迫った対決について説明し、栄一に対し、経済界が政府の決断を支持するよう意見を纏めてほしいと丁重に要請しました。それは、経済界の存在を、現在の言葉でいえば、国のステークホールダーとして認めたという事で、すべてが官の独裁で決められてきた過去の社会では考えられないことでした。そしてその流れは、戦後にも受け継がれ、経団連、経済同友会、商工会議所などの業界ネットワークが、政府や世論に与える影響の大きさの中に如実に反映されています。

(7) 地方分権

 話は少し変わりますが、明治41(1908)年9月27日、渋沢栄一は郷里の八基村を訪れ、諏訪神社の祭礼に参加したあと、村民の要請に応じて血洗島小学校で講演をし、地方分権の大切さについて語っています。その趣旨は明治以来の日本では、中央集権が強化されてきたが、健全な国を目指すためには、この際中央ないしは都会だけを偏重する考え方を改めるべきだと云うことでした。栄一の言葉によれば、いずれの国の進歩も、はじめは小にして、小から大に及ぶ。家から村に、村から郡に、それから国に行くという順序と存じている。都会は第二で第一は村に立派な自治制度を行うべきであり、中央政府だけでは国は出来ない。地方自治、地方分権を進めてはじめて健全な国が出来ると述べていますが、こうした考え方は、現代の日本が抱えている課題を100年も前に先取りしたもので、その先見性には驚くべきものがありました。

 談話の中ではさらに英国での見聞を例に引いて、彼の地では意欲の高い農村は学校のほかに図書館をもち、多くの書物を集め、農業も工業もすべて学理を基盤として発展を図っているが、八基村の場合も図書館と倶楽部体の組織を設置してはどうかと問いかけています。

 深読みにすぎるかもしれませんが、当時の栄一は、自分が育った幕末の頃は農村にもっと活気があったが、維新後は中央集権の進展によって地方の生活が物心両面で萎縮してしまったという感触を持っていたのではないかと思われます。

 その理由は、明治以前の日本の農村が案外豊かな生活をしていたと思われることと関連しているのかもしれません。徳川幕府は年貢米と称して米については厳しく課税してきましたが、米以外の商業作物については徴税の意図もなく、業者の上げた売買差益を捕捉する手段も持たず、いわば野放し状態になっていました。その結果、表面的には実質的な経済力や、文化的な蓄積という面では武士階級よりも高い水準を維持していた農家が多かったように思われます。このことは栄一の生家が、養子に入った父、市郎右衛門の努力もあって、養蚕や藍の取引で毎年1万両を超える売上げを上げていたと云われることや、尾高家が千代の兄の惇忠のように、農業の傍ら和漢の書に通暁した高度な知識人を育てたことからも窺われるかと思われます。

 財団のデータベースによれば、栄一は八基村の諏訪神社に、明治30(1897)年、神社の改築に2千円を寄付して以来、10回以上にわたって村を訪れ、諏訪神社に参拝しております。それは23歳の時に郷里を離れて京都に亡命し、その後もいろいろな事情で東京に居を構えて活動するようになったことを、郷里の方々に対して申し訳なく思っていた事の表れのように思われます。そのためもあってか、村の活性化を支援するという趣旨で、ことあるごとに神社のリニューアルや小学校の校舎の改装などに繰り返し寄付をしております。

 一方、栄一の考え方や活動には常にすぐれたバランス感覚があったように思われます。年を追うごとに東京中心の中央集権が強化されてゆくことに強い懸念を表明し、地方分権の拡充を強く主張していますが、かといって青年時代のように反政府的な行動に走るわけではありませんでした。バランス感覚という言葉にはどちらにもいい子になろうという感触がありますが、いつも国全体の長期的な利益を考えて、堂々と正道を歩もうとしていたように見受けられます。

 そうした生き方が幸いした面もあったのか、大正昭和にかけて日本の安定を脅かし、ひいては国の滅亡の原因ともなったテロリズムの対象となることもなかったように思われます。高橋是清、団琢磨、井上準之助、浜口雄幸など有力な財界人や政治家が次々と凶弾に倒れる中で、栄一はその対象となることがなく、無事に91年の生涯を全うしました。

○ おわりに

 明治の文豪幸田露伴は『渋沢栄一伝』(岩波書店, 1939.06)という著作の冒頭で次のように述べております。「栄一に至つては、実に其時代に生れて、其時代の風の中に育ち、其時代の水によつて養はれ、[中略] 時代の要求するところのものを自己の要求とし、時代の作為せんとする事を自己の作為とし、求むるとも求めらるゝとも無く自然に時代の意気と希望とを自己の意気と希望として、長い歳月を克く勤め克く労したのである。」

 栄一自身も、変革の時代に生まれ合わせ、時代の勢いに導かれ、ある場合には時代のさらなる進展に努力してきた過去の経緯を強く自覚していたようです。財団のデータベースには、あらゆる機会に栄一が行った、おびただしい数の講演や談話の、ほとんどすべてが保存されていますが、自分が辿ってきた歴史を振り返り、相手により、状況に応じて話題や文脈を巧みに替えて、聞き手の心に語りかけようとする栄一の態度には、独特の感動をよぶ力があったようです。養育院に収容されている子供たちを、しばしば自宅に招いてもてなしましたが、そういうときにも幕末以来の世の中の移り変わりや、自分の現在の立場をわかりやすく説明し、子供たちもそれを楽しみにしていて、毎回食い入る様な表情で聞いていたと云うことです。

 栄一は過去の成功体験に溺れることが少なく、いつも現在の成果を未来に繋げることを考えていたようです。それは自分の仕事の成否よりも、まず第一に国の発展を目標に掲げていたことの結果だったのかもしれません。膨大なデータと向き合って、とつおいつ考えていると、ふと死んだはずの栄一が今も生きていて、この国の置かれている現状を懸念している息づかいを身近に感じることがよくあります。他の多くの同時代の指導者たちとはひと味違った形で、栄一が今も新しい世代の関心を引いている理由もその辺にあるのではないかと思っている次第です。

 財団としては今後も栄一に関する資料の整備や公開を進め、中国や欧米での国際的な活動を強化し、生前の栄一が願っていたことのたとえ一部でも実現するよう、微力を尽くしたいと考えております。たいへん雑然としたお話になりましたが、ご静聴を心から感謝いたします。


写真:渋沢史料館所蔵
ウェブサイト掲載にあたり原文の一部を改稿しました。

掲載:2023年3月23日