3. 歴史的視野の中の渋沢栄一 / 渋沢雅英

【2007年12月1日 華中師範大学 渋沢栄一研究センターにて】

写真:渋沢栄一(飛鳥山邸ヴェランダにて)[ はじめに / (1) 鄧小平氏と中国経済成長の奇跡 / (2) 日本の近代化とそのインパクト / (3) 官尊民卑打破 / (4) 民間企業の育成 / (5) 財界:新しいパワーセンターの誕生 / (6) 孫文氏との共同作業 / (7) 公益の追求者 / (8) 「中華民国水災同情会」 / (9) いま、なぜ渋沢栄一か? ]

○ はじめに

 19世紀以降、現代に至る歴史の流れの中で、渋沢栄一の人生とその活動が持っていた意味とひろがりについて、考えてみたいと思います。栄一が生まれたのは1840年、中国でアヘン戦争が始まった年でした。1868年、28歳の時には日本で新政府が発足し、91歳で亡くなる1931年には、満州事変が始まりました。そしてその後も東アジアは絶え間ない変化と激動を体験してきました。なかでも最近起こった大きな変化は、鄧小平氏の指導のもとに展開され、万人の予想を上回る成果を上げた経済成長でした。

(1) 鄧小平氏と中国経済成長の奇跡

 国土や人口の大きさを反映して、中国の発展は、世界の風景を一変させてしまいました。例えば、米国とソ連の間の武力の均衡の上に成り立っていた第二次世界大戦後の国際関係の基本構造は、中国が見せた「社会主義市場経済」の発展によって、その基盤的条件が一変してしまいました。また国内では、社会経済のパラダイムが一変し、国民の間に長く潜在していた成長と発展のエネルギーが、一挙に開放されました。そこには、1910~40年代にオーストリア出身の有名な経済学者ヨゼフ・シュムペーターが、企業の成長の条件として提唱した「創造的破壊」と「生産要素の新しい結合」という概念が、中国という巨大な舞台を使って再現されたような趣がありました。そして1970年代末にこのような大転換を指導し、その後も自ら先頭に立ってそれを推進した鄧小平氏の卓越したリーダーシップは、世界歴史の中で不動の評価を確立しました。

 1980年と81年、私は日米欧委員会(Trilateral Commission)の訪中に参加し、その鄧小平氏が、中国社会のパラダイムの変換を目指して、新しい概念の導入に邁進する姿に接する機会がありました。日米欧委員会は1973年に、米国のディヴィッド・ロックフェラー(David Rockefeller)氏やズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski)氏などが中心となって「industrialized democracies」(工業化された民主主義)と呼ばれる国々、即ち北米、西欧、日本の有識者に呼びかけて立ち上げた知的対話のフォーラムで、毎年の総会で発表される世界情勢や、当面の問題点についての報告は各方面の注目を集め、各国の政策にも影響を与えていました。

 このように、いわば西欧民主主義世界の知的中核ともいうべき性格を持ったグループを、北京に招待するということは、数年前までは考えられない異例の展開でした。そこで中国側の熱い期待に応えるため、日米欧委員会は1980年、先遣隊として数名の日本人からなるグループを北京に派遣しました。日米欧委員会の創立メンバーの一人であり、後に日本の首相となる宮沢喜一氏も参加し、人民大会堂で、鄧小平氏との率直で友好的な会談が行われました。そして翌年の1981年、北米、西欧、日本という3つの地域を代表する委員会の委員多数が訪中し、中国の政府や党の関係者と、2日間にわたる広範な対話を行いました。会期中、数々のレセプションや夕食会、対話集会などに積極的に参加する鄧小平氏の姿からは、従来の固定観念を超えて、改革発展に役立つものはなんでも積極的に取り入れようとする、並々ならぬ勇気と決意が伝わってきました。

 そうした鄧小平氏の意図を反映してか、中国の風景は、私たち外来者の目から見ても、すでに変化の兆候を見せていました。1980年から81年にかけて、たった1年の間に道を行く人々の服装が、人民服一辺倒から、より自由でカラフルなものに変わり、外国人に接するときの表情や態度にも、オープンで友好的な雰囲気が見られ始めました。それは鄧小平氏の希望する「創造的破壊」が進行している事の証左とも思われました。そしてわずか数年後には、郷鎮企業の成長や数々の特区の整備を通して、中国全土に「生産要素の新しい結合」が力強く始動し、急速かつ広範な成長が始まったのです。

 来年度 [2008年度] に、この講座の講師として招聘したいと考えているエズラ・F・ヴォーゲル教授は1989年、『中国の実験 : 改革下の広東』(One Step Ahead in China, Guangdong Under Reform)という書物の中で、鄧小平氏の指導のもとで行われた改革について詳細に記録しています。始めは広東省をモデルケースとして都市と農村、農業と工業、さらには社会と政治制度を含め、あらゆる分野にわたる抜本的な改革が進行し、多くの試行錯誤を繰り返しながらも、やがてそのすべてが「四つの現代化」の名の下に、全国に波及してゆく状況は、20世紀の歴史の最後を飾る、最大の社会的実験だったといっても過言ではないと思います。

(2) 日本の近代化とそのインパクト

 歴史を140年余り遡ると、明治の日本が、現代の中国と質的に似通った変化を体験し、同じように急速で、広範な成長を実現したという事実が明らかになります。江戸幕府という名の下に、300年近く続いた封建的社会システムの崩壊は、日本の政治や社会の基本的なパラダイムを大きく変え、長い間凍結状態に置かれていた成長と発展のエネルギーを開放することとなりました。そしてそのプロセスを通して、後の中国の場合と同じく、シュムペーターのいう「創造的破壊」と「生産要素の新しい結合」が、日本という国を実験の場として、実証されることとなりました。

 当時の世界情勢の中で、ある日突然展開し始めた明治日本の高度成長は、日本人自身が意識していたよりも遙かに大きな影響を、外部の世界にもたらすこととなりました。非西欧の国である日本が、西欧の方式を導入して劇的な発展を実現したことで、科学技術文明の独占を前提とする西欧の世界支配の構造が変わり始めました。特に、帝国主義諸国による分断支配を軸として展開されて来た、当時の東アジアの国際関係のなかで、日本は好むと好まざるとにかかわらず、主要なプレイヤーの一つとして、西欧列強の利害が錯綜する競争の舞台に押し上げられました。

 多くの非西欧諸国の中で、日本だけが単独で近代国家の形を導入し、それをベースとして世界のパワーゲームに参加したことは必ずしも歓迎すべき事ではなく、後の歴史が示すように、多くの困難や悲劇を生む原因ともなりました。しかし、東アジア以外の地域、即ちアフリカや南アジア、中近東などが、20世紀の半ば、第二次世界大戦終結の時まで、西欧による実質的支配のもとで、長期的な停滞を続けてきたことと比較すれば、東アジアが、世界史の変化に主体的に関わり、自らの運命の主宰者として行動できたことは、それなりに評価すべき展開だったと思われます。

 渋沢栄一は、明治維新の直後から、始めは政権中枢の政策立案者の一人として、また明治6(1873)年以降は、新しいタイプの企業指導者として、ある場合には仕掛け人、他の場合にはその支援者、或いは推進者として、その歴史的変革を促進すべく、効果的な活動を展開しました。以下、栄一の人生の軌跡を検討し、一人の民間人の存在とその活動が、国力の増進を背景として、どのようにして歴史の流れに影響するようになったかを検討してみたいと思います。

 明治2(1869)年秋、29歳の渋沢栄一は明治新政府に招聘されて民部省租税正に任じられ、翌年同省の、のち大蔵省の改正掛という新しい部局の長に任命されました。改正掛の任務は、シュムペーターのいう「創造的破壊」と「生産要素の新しい結合」という命題を、政府の立場で組織的に企画推進し、近代国家形成の青写真と、そのためのロードマップを描く事にあり、いわば政策立案の司令塔のような部局でした。栄一のように農村の出身で、明治新政府とも全く関係のなかった29歳の青年を、1年余りのフランス遊学の経験があったとしても、このように枢要な地位に抜擢したことは、変革実現への政府の強い決意を示すものでした。

 その背景には、30年近く前に中国で起こったアヘン戦争の顛末に触発された強い危機感がありました。西欧諸国による侵略への脅威は、日本人の間に、それまで実感されなかった「国」という意識を呼び覚まし、国民国家形成への契機となりました。特に政権の交代を推進した若い武士達は、変革への強い意欲を共有しており、それが明治政府の、すぐれて未来指向の政策となって実を結んだのです。かつて鄧小平氏は「黒い猫でも、白い猫でも、ネズミを捕る猫はいい猫だ」といったと伝えられていますが、140年前の明治新政府も、変革を促進するものであれば、何事によらず歓迎しようという気風に満ちていました。

 私どもの財団では、全68巻に及ぶ『渋沢栄一伝記資料』のデータベース化を進めており、今年度は目次の検索システムがほぼ完成しました。それによれば、改正掛の長として、渋沢栄一が関わった案件は、度量衡の改正、全国の測量、郵便制度の創設、鉄道の敷設、養蚕業の保護と支援、関税率の制定など30項目以上に及び、近代国家形成に必要な要件を網羅しています。また、改正掛は廃藩置県に伴う藩札の整理にも関与し、諸藩の藩札の時価による交換を提案し、そのために必要な総額約1億円の紙幣の印刷を、ドイツ国に発注したりしています。しかし、新政府にとってさらに困難だったのは、代々世襲によって保証されてきた収入の道を、突然失うこととなった武士階級の生活の支援という問題でした。最近の中国の改革のなかで「鉄飯碗」と呼ばれる、国有企業の従業員の生活の保障とも似通った案件で、まかり間違えば、生まれたばかりの新政府を転覆させかねない重大な問題でした。

 強い危機感に突き動かされた栄一は、何日も続けて、ほとんど徹夜の状態で、数千枚に及ぶ緊急対策の要綱を書き上げて提出したということです。30歳前の若さとは言え、そのエネルギーと能力は驚嘆すべきものとして、政府内部でも広く認められ、伊藤博文、井上馨、大隈重信などトップの指導者達との間に、親密な友情と信頼関係を作ることができました。

 このように政府の高官として、半ば約束されたキャリアの可能性が開けていたにもかかわらず、渋沢栄一は敢えて民間人として活動する道を選択し、明治6(1873)年、33歳で政府の役職を辞任し、発足したばかりの、日本初の西欧型民間金融機関である第一国立銀行の総監役に就任しました。そしてそれ以後60年にわたる長い生涯を、民間人として活動を続け、官界に戻ったり、政治の世界に関与したりすることはほとんどありませんでした。

 官僚の地位と権力が異常に大きかった当時の感覚からすれば、官界での立身出世を断念して野に下るというのは、世俗を捨てて出家するような印象を持たれたようです。にもかかわらずそうした転身に踏み切った背景には、「生産要素の新しい結合」を実現するためには、民間企業のエネルギーの結集による産業の振興と、それを支える金融業の成長が不可欠であるという強い認識があったようです。それはのちにシュムペーターが、「新しい価値を創造する企業家こそが、経済発展の一番大切な担い手であり、彼らの企業の発展を可能にするのが、信用を供与する銀行の役割だ」と述べたことを、半世紀も前に先取りしていたとも言えるでしょう。

(3) 官尊民卑の打破

 一方、政府の仕事よりも民間企業の発展にこそ、すべてを懸けようという渋沢栄一の意欲の背後には、少年の頃から思い続けてきた、官尊民卑の打破に対する不退転の決意が働いていました。29歳になるまで江戸幕府の体制のもとで生活した栄一は、武士階級を頂点とする階層社会が、個人の自由と自己実現への希望を奪い、社会の挫折と閉塞、そしてしばしば腐敗をもたらすことを痛感していました。

 その不満が高じて、文久3(1863)年、23歳の時には、志を同じくする青年達と結束して、体制転覆のための武力蜂起を計画したことすらありました。社会の変革に向けてのそうした激しい欲求は、栄一が高齢になっても衰えることがなく、必要と信じる改革は、どんなに困難で、時間がかかっても必ずやり遂げるという気概を持ち続けました。そしてそのことが同時代の他の指導者達とは一味違う、栄一の独特のカリスマの源泉となっていたように思われます。

 幸か不幸か武装蜂起の計画は、間際になって中止され、いわば命拾いをした栄一は、幕府の追及を逃れるため、親や妻子を残して京都に出奔します。当時の京都は革命の温床で、体制の変革を志す若い武士達との交流をすすめる一方、思いがけない経緯から、一橋家という徳川将軍家に連なる大名の家に仕官し、その家の財政政策の立案に参画し、かなりの成果をあげる事ができました。そしてそれが契機となって、慶応3(1867)年、フランスで行われる万国博覧会に、日本を代表して参加するグループの随員として渡欧することとなりました。

 当時は海外渡航自体が希有の機会であり、他の随員の多くが西欧文化への拒絶反応を克服できないでいる中で、栄一はこの得がたいチャンスを積極的に活用し、ヨーロッパの先進諸国の社会経済の仕組みを観察し、理解すべく、熱心に努力しました。そこでは階級差別はおおむね克服され、官と民の間にも、日本とは全く違ってほぼ対等な関係が定着していました。そして特に強い印象を受けたのは、政府や自治体が、民間の資金を集めてガスや水道などのインフラを整備し、その使用料収入を投資家に還元するという「合本法」が円滑に機能していることでした。

 わずか1年余りの滞在でしたが、栄一はそうしたシステムの見聞につとめたほか、代表団のパリでの滞在の費用の一部を捻出するため、フランスの国債を始め株式や債券の売買を行うなど、西欧の経済の仕組みを実地に体験しました。

 このように、23歳で故郷を離れて京都に向かった時点から、33歳で民間の経済界に身を投ずるまで10年足らずの間に、栄一は驚くほど多彩な経験を積み、西欧の社会経済システムにも触れ、さらには明治政府が推進する広範な社会改革の現場にも立ち会いました。

 そうした経緯には、渋沢栄一という人物を、当時の日本や東アジアには存在しなかった新しいタイプの指導者に育てようとして、運命が、自ら手をさしのべて準備したかのような印象を受けずには居られません。

(4) 民間企業の育成

 しかし、近代的な民間企業の立ち上げとその運営は、決して容易な仕事ではありませんでした。日本最初の本格的製造業となった王子製紙(設立当時の名称は抄紙会社)は、紙幣や国債、新聞雑誌等の需要を見込んで、明治6(1873)年、栄一自身の発意で設立されました。資本金は最初15万円で、外国人技術者を高給で雇い、機械はすべて輸入し、明治8(1875)年、王子に工場が完成しました。それは第二次世界大戦後の世界では、後進国開発の初期パターンとして一般的となる、いわゆる輸入代替型の成長戦略に当たる企画だったと思います。ところが技術上の問題を克服できず、いくら努力しても商品として売れるような紙ができず、栄一は苦境に立たされます。初年度の決算では4万円の損失を計上し、その後も毎年欠損が続きます。

 現代の世界では、途上国開発は世界経済の優先課題とみなされ、先進国が積極的に支援するための仕組みができています。資本の不足は、世界銀行やアジア開発銀行等が積極的に面倒を見ますし、技術や人材の面では、国連開発機構や各国政府から、有利な条件での援助を受けることが可能です。改革開放以降の中国の場合も、日本を始め西側の多くの国々が、インフラ整備のための大型の資金援助や、広範な技術支援を提供しました。しかし19世紀半ばの世界には、そうした国際的な協力は、機構は勿論、意識さえ存在せず、日本を始め、近代化を目指す途上国は、技術、知識、人材などのすべてを、巨額の対価を支払って自ら調達しなければなりませんでした。

 王子製紙の場合、数年後に大川平三郎が渡米し、技術を習得して帰国、ようやく利益らしい利益が出るまでに10年がかかりました。その間の出資者への説明には、さすがの栄一も進退窮まったといわれています。しかし株主達は、栄一の誠実さと目的意識の正しさを信じ、長期の低配当に耐えたうえ、損失補填の為の増資にも応じ続けました。そして新技術を基盤としてようやく営業が可能となり、やがて王子製紙は日本を代表する会社に成長して行きます。ちなみに現在 [2007年] の王子製紙は、江蘇省南通に2,000億円という巨額の投資を決め、中国政府の許可も得て、近く工場の建設に踏み切ることとなっています。

 第一国立銀行を拠点として、栄一は生涯を通じて約500 の会社の設立と経営に参画しました。そしてこれらの企業は、製紙から紡績、鉱山から製造業、鉄道から海運、公共事業から生命保険、ホテルから劇場、さらにリゾート開発に至るまで、生まれたばかりの日本の近代産業のあらゆる分野を網羅していました。

 栄一は、新しい事業を興そうとするすべての人々を支援しました。彼はこれらの企業家たちに、銀行からのローンの組み方や、正確な財務諸表の作り方などを指導しました。事業の立ち上げに当たっては、しばしば発起人名簿に名を連ね、開業のための資金の一部を自ら投資しました。しかし、その結果会社が無事設立され、経営が順調に進むのを見定めると、多くの場合、自分の持ち株を売却し、その資金を次の新しい企業の支援に充当しました。企業を自分のものとして、富の蓄積を目指すという発想は希薄で、もっと別の目的、即ち、日本の近代化そのものの推進者ないし支援者の役割に徹していたように思われます。

(5) 財界 : 新しいパワーセンターの誕生

 栄一はまた、拓善会(現・全国銀行協会)、東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京株式取引所(現・東京証券取引所)等という業界ネットワークの立ち上げにも、懸命に尽力しました。その意図の一つは、企業人たちが共通の問題に対しては共同で取り組み、必要に応じて政府にも働きかけて、経営環境の改善につとめることができるような枠組みを整備することでした。そしてもう一つは、そうした努力を通じて企業人達が、国際関係を始め、政治経済の現状や、国が当面する問題を理解するとともに、独立の精神を持って、自分たちの運命を切り開くような気概を持ってもらうことでした。

 しかし、当時の企業人は、経営者や被雇用者を含めて、多くが依然として江戸時代から引き継いだ階級差別の気風に染まっていて、自分の運命に主体的に関わろうという栄一の提案に対しても、はかばかしい反応を示そうとしませんでした。伝記資料に記録されている、その当時の栄一の活動の詳細からは、連日行われる各種の会合のなかで、ほとんど無限と思われる時間とエネルギーを費やして、懇切丁寧に説得を重ねる、栄一の印象的な姿が見られます。

 こうしたねばり強い説得により、何年かの後には企業人達自身の意識も変わりました。新しく創立された早稲田や慶応など大学出身の経営者の数も増え、「財界」という名のエリート企業人の集団が育ち始めました。それは、長い間、官尊民卑の残滓を背負ってきたこの国に、ようやく民間人による新しいパワーセンターが生まれたことを告げるものでした。

 明治36(1903)年のある朝、栄一は、やがて日露戦争で活躍し陸軍参謀総長となる児玉源太郎参謀本部次長の突然の訪問を受けました。児玉は、ロシアとの差し迫った対決について説明し、栄一に対し、経済界が政府の決断を支持するよう意見をまとめてほしいと丁重に要請しました。それは、経済界の存在を、現在の言葉でいえば、国のステークホールダーとして認めたという事で、すべてが官の独裁で決められてきた過去の社会では考えられないことでした。そしてその流れは、戦後にも受け継がれ、経団連、経済同友会、商工会議所などの業界ネットワークが、政府や世論に与える影響の大きさの中に如実に反映されています。

(6) 孫文氏との共同作業

 栄一が中国の指導者との交流を通じて、東アジアの歴史と直接関わりを持ったのは大正2(1913)年2月、辛亥革命の成功を背景として、孫文氏が東京を訪問したときでした。この年孫文氏は47歳、長い間の辛労にもかかわらず、血色のよい丸顔には選ばれた人に特有な風格と威厳が輝いていたといわれています。日本側は非常な期待を持って孫文氏を歓迎し、毎日のように各方面の歓迎会が続き、栄一も極力出席しました。

 当時の指導的な日本人の間には、半世紀前の明治の変革の記憶が新しく、辛亥革命を昔の日本と比較して、清朝を徳川幕府になぞらえ、孫文氏の活動を支援しようという気分が強く存在しました。孫文氏自身も、革命以前からしばしば日本を訪れ、多くの知己や、熱心な支援者を集めたことはよく知られています。

 2月21日、孫文氏は戴天仇氏らを伴って兜町の事務所に渋沢を訪問しました。そして革命後の中国の実情を詳細に説明し、今後の中国経済について渋沢の協力と支援を、誠意を尽くして要請しました。渋沢は孫文氏の情熱と信念に感動し、このような人物が、中国の近代化を推進することになればどんなに素晴らしいかと考えるとともに、孫文氏に対し、この際思い切って政治の仕事を従として、実業の振興に専心することを勧めました。

 権力への近道として、政治を志す人は沢山ありますが、地道に経済建設に努力しようとする人は少ないのが実情です。しかし利益への誘惑の多い経済の仕事こそ、高い志を持った人を必要としているのです。そしてお国の人々が今一番必要としているのは、経済の近代化と成長なのです、と誠意を込めて説きました。

 孫文氏は非常に素直な人だったということで、栄一の説得の趣旨を理解し、実業に力を尽くそうという意思を表明しました。そこで栄一は直ちに財界の指導者や政府高官と連絡し、毎日のように孫文氏と会合を持ち、合弁会社設立の準備を進め、3月3日には「中国興業株式会社」という中日合弁の会社の定款をまとめ、孫文氏と渋沢栄一が共同発起人となって会社の設立が決まりました。

 翌々日の3月5日、孫文氏は東京での日程を終え、盛大な見送りを受けて、新橋駅から帰国の途に着きました。ところが神戸まで着いたところで中国からの電報で、同志宋教仁氏暗殺の報に接しました。孫文氏は非常に落胆し、早速渋沢栄一に長文の手紙を書いて、先生の勧めに従って実業を主とするつもりでいたが、こういう状況では、目下のところ政治を離れることはできない。しかし、中国興業株式会社は、中国国民のためにたいへん重要な企画なので、袁世凱政権とも話をするので、自分が参加できなくなっても、是非、仕事を続けて頂きたいと要請しました。情感に溢れた立派な手紙で、栄一も感動し大切に保存していましたが、残念なことに大正12(1923)年秋、東京を襲った大震災で焼失してしまいました。

(7) 公益の追求者

 大正5(1916)年、渋沢栄一は明治6(1873)年以来43年にわたってつとめてきた第一銀行の頭取を始め、多くの会社の役職を辞任し、それ以後は社会事業、教育、国際関係など、実業以外の仕事に専念することとなりました。さきに明治初年、栄一は徳川幕府が残した貧民救済等の仕組みを復活させる計画を推進しました。それは後に東京養育院として、東京の貧困救済事業の一翼を担うこととなり、栄一は50年以上にわたってその院長を務め、毎月のように各地の分院を訪れ、ホームレスや障がい者達との対話に努めました。国内国外を問わず、栄一は常に公益的な事業に積極的に取り組みました。多くの病院や学校、孤児院や養老院など600以上といわれる各種団体に、役員として参加していました。

 教育については、当初は実業教育と女子教育に情熱を傾けました。始め商法講習所といわれていた組織を、商業学校、さらには商科大学に昇格拡大する事は、信じがたいほどの難事業となりました。当時は、階級差別の意識がまだ強く残っていて、商人には教育よりも実務の訓練が必要だという考え方が一般的で、商業教育の大学昇格には根強い反対がありました。栄一は40年にわたって各方面に説得を重ね、ついに大正9(1920)年、東京商科大学、現在の一橋大学が成立しました。女子教育については、明治21(1888)年東京女学館の建学に関係し、ついで日本女子大学校の設立運営に努力しました。それも単なる支援ではなく、大正13(1924)年には女学館の館長の職務を執行、昭和6(1931)年には日本女子大学校の校長に就任しています。

 20世紀に入った頃から、栄一は日本の対外関係、特に中国並びにアメリカとの関係をたいへん心配するようになりました。高齢化の進行にもかかわらず、大正3(1914)年には、袁世凱政権の招きで中国を訪問し、また明治35(1902)年以降、アメリカには4回旅行し、セオドア・ルーズベルトからウォレン・G・ハーディングまで4人の歴代大統領と会談するとともに、各地で多数の人々と交友を深め、いわゆる民間外交の推進に努力しました。

 大正9(1920)年にはアメリカの東海岸を中心として多数の企業経営者、ジャーナリスト、政治家などを東京に招き、「日米有志協議会」という国際会議を主催しました。当時は米国西海岸での、日本人移民の問題が両国の関係を難しくしていて、栄一も個人的にそれに深く関わっていました。しかしこの会議では参加者達に、敢えてこの局部的な問題に深入りすることを避け、もっと大きな課題、例えば中国の経済発展のための日米両国の協力の可能性や、西太平洋の国々の繁栄を目指す国際的枠組みの構築などを論議することを主張しました。これは第二次世界大戦後の世界で、日米欧委員会など「民間知的交流」と呼ばれることになる新しいパターンで、栄一は1920年の時点で、すでにそうした方式の意味と効果を意識していたものと思われます。

(8) 「中華民国水災同情会」

 昭和6(1931)年夏、91歳を迎えて体力も低下し、自宅で静養に努めていた栄一は、人生の最後の仕事に駆り出されます。その年、中国各地は異常な長雨に見舞われ、7月以降は揚子江、黄河、珠江など全国の大河が一斉に決壊、未曾有の大水害となりました。被害人口の推定は3,400万人、耕地面積の17%が冠水し、被害総額は20億元に達すると伝えられました。日本では早速商工会議所が中心となって「中華民国水災同情会」を設立し、渋沢栄一が会長に就任しました。関東大震災の時に、中国側が260万円の義援金を贈ってくれた経緯もあり、赤十字社、工業倶楽部その他多くの団体が参加し、9月6日、栄一はラジオを通して、誠心誠意全国民に協力を訴えました。

 その効果は大きく「同情会」は集まった金で大量の救援物資を買い、「天城丸」という船に満載して、9月20日上海入港の予定で現地に送り出しました。ところが9月18日、奉天郊外で起こった爆発事件を理由として、日本軍が奉天を占領、満州全域を目指して攻勢を開始しました。いわゆる柳条湖(溝)事件で、これを契機として、日本はあとに戻ることのできない侵略と滅亡への道に重大な一歩を踏み出しました。当然ながら、国民政府は態度を硬化させ、厳重な抗議とともに、中国側の「水害救済会」会長宋子文氏の名で、救援物資の受け取りを拒否するという通告がありました。

 10月16日、「同情会」は、会長渋沢栄一の名前で寄付者全員にこの悲しい成り行きを報告し、寄附金返済の詳細を述べて了解を求めました。しかし当の渋沢栄一は、この日すでに不帰の病床に就いていました。91年の長い間その活躍を支えてきた頑健な肉体も、ようやく衰弱の色を深め、11月11日の早朝、静かにこの世を去りました。栄一が努力した国際交流の最後の舞台が、このような結末となったことはまことに遺憾でありましたが、歴史の歯車はすでに誰にも止められないほど速く、大きく回り始めていたのです。

(9) いま、なぜ渋沢栄一か?

 20世紀も終わりに近く、中国が、信じられないほど強力な成長路線に踏み込もうとしていたちょうど同じ時期に、日本は、世界史にも例が少ないほど大型のバブル経済の後遺症に苦しんでいました。そしてその頃、死後70年以上を経て、通常ならば歴史上の人物として表舞台からは退場していたはずの渋沢栄一の人生と業績が、再び世の中の関心を呼び、各種のメディアに頻繁に取り上げられるようになりました。現在の日本が、いったい何を渋沢栄一から学ぼうとしているのかについて、いくつかの点を考えることで、このプレゼンテーションを終わらせていただきたいと思います。

 敗戦後の日本は、占領軍の絶対的な権力のもとで、再び「創造的破壊」を迫られることとなりました。占領軍当局の当初の政策は「創造的」であるよりは、むしろ「懲罰的」なものでしたが、米ソの対立が、朝鮮戦争などに発展するに及んで、日本を共産主義への防波堤として再建するという方向に転換しました。そうなると、国内の政治力学では実現不可能だった幾多の変革、たとえば農地改革、財閥の解体、一定の年齢以上の指導者の一斉追放などが、もはや「懲罰」ではなく、むしろ「創造的破壊」の条件として機能し始め、その上に「生産力の新しい結合」が進展し、1960年代以降、日本は再び世界史に残るような高度成長を実現しました。

 1970年代から80年代にかけて、こうした実績に過剰な自信を持った日本人は、90年代に入ってからは、バブル崩壊という形で痛烈な反省を迫られました。ひとつには、市場経済の明らかな暴走と見られるような現象を前にして、企業は誰のものか、何のために存在するのか、といった基本的な問いかけが行われ始めました。そして、明治の高度成長を演出しながらも、「論語と算盤」「道徳経済の合一」などという倫理的な概念を主張し続けた渋沢栄一の人生観、世界観が、改めて国民一般の関心を引くこととなりました。

 またバブル崩壊を契機として、「官」と「民」の関係が改めて問題視されるようになりました。急速な経済成長を達成するためには、政府の総合的な計画に基づいて、希少な資源の配分を行うことが望ましいという考え方が、支持を集めやすいことは否定できません。しかし、その反面で「官」の奢りと「民」の依存という不毛の枠組みが定着し、多くの矛盾が露呈され、高度成長期に遡って、政府や官僚の行動に、強い批判が寄せられるようになりました。

 一方、バブル崩壊後の日本では、単線的な高度成長指向に代わって、複雑で多角的なニーズが浮上し、それらに応えられない政府の限界が顕在化し始めました。そしてそういう中で「官尊民卑打破」を生涯唱え続けた渋沢栄一の生き方や考え方が再び取り上げられ、もし、栄一が存命だったら、現在の日本の状況をどう考え、それに対してどう対処するだろうかという点が、改めて注目を集めたようです。

 「官」と「民」の関係は、社会主義と市場経済を問わず、現代の世界が等しく立ち向かわなければならない問題で、渋沢栄一といえどもそれへの「ready made」な答えを持っていたとは思われません。しかし、この問題は「官」と「民」の双方が謙虚で、かつ道義的な行動様式を真摯に求め続けることの中にしか答えがないように思われます。そしてそういう文脈のなかで、栄一の人生が体現していたと思われる精神性、倫理性の持つ意味が問い直されている様に思われます。

 中国や東南アジア諸国の経済発展に触発されて、東アジア共同体という構想が、しばしば話題に取り上げられるようになりました。西ヨーロッパが長年の試行錯誤の末、EUの名の下に政治的、経済的な共同体を形成しつつある中で、東アジアはどうなるのか、に関心が集まるのは当然だと思われます。しかし西ヨーロッパが、曲がりなりにもキリスト教、民主主義などの精神的諸価値を共有しているのとは対照的に、東アジアでは、共産主義、絶対王政、軍事政権、民主主義など多様な政治体制が混在し、精神面でも世界の主要な宗教のすべてが共存しているというのが現実の姿です。もし共同体を目指すとすれば、何らかの精神的、文化的価値の共有を確認することから始めなければならないように思われます。

 76年も前に亡くなった渋沢栄一に、このような未来指向の国際関係について問いかけるのはフェアとは言えないかも知れません。しかし一方、東洋、特に中国の古典や伝統文化に深い造詣を持ち、それらを精神的なよりどころとして、国の近代化に努力した栄一は、東アジア世界に対して、現代の日本人と比べて、より切実な理解や共感を持っていたのかもしれません。そういう視点からも、私どもの財団としては、アジアについての栄一の考え方をさらに研究、分析し、その願いの実現に、少しでも尽くしたいと考えている次第です。ご清聴を感謝いたします。


写真:『渋沢栄一伝記資料』別巻第10, p.228
ウェブサイト掲載にあたり原文の一部を改稿しました。

掲載:2022年3月18日