2. 岩崎弥太郎と渋沢栄一 / 渋沢雅英

【2010年6月14日 埼玉県経営者協会にて】

写真:岩崎弥太郎(提供:国立国会図書館)[ はじめに / (1) 近代を拓く(渋沢栄一) / (2) 三菱の台頭(岩崎弥太郎) / (3) 抜群の人材(渋沢栄一) / (4) 協力「東京海上」 / (5) 対立「日本郵船」 / (6) 日本的システムとの共生(岩崎弥之助) / (7) 婚礼 / (8) 敗戦 / (9) 三菱の解体(岩崎小弥太) / (10) 結び・企業文化の違い ]

○ はじめに

 明治日本の近代化を背景として、岩崎弥太郎と渋沢栄一という二人の人物について、お話をするようご依頼を頂きました。

 確かにこの二人はそれぞれ圧倒的な存在感を持つ天才的な実業家で、明治以降の日本の歴史に、大きな足跡を残しました。しかし、経営理念ないしは活動のスタイルという点では、二人の間にはかなり大きな違いがありました。弥太郎が、企業の成功の鍵はトップの経営者による独裁的な運営にあると信じ、断固としてそれを実行したのに対して、栄一の基本的な信念は合本主義にあり、多くの企業の設立や運営を支援する中で、この原則を逸脱したことは一度もありませんでした。

 弥太郎は激しく豪快な気性に加えて、緻密な計算と優れた判断力を持ち、徒手空拳(としゅくうけん)、日本最大の企業集団の基礎を作りあげました。その行動には、他人の思惑に惑わされることなく、ひたすら利益の極大化を図り、さらなる支配力の確立を追求するという、日本人離れのした独特の境地があり、その経営のエートス(培ってきた性格、習性)には、むしろ同時代のアメリカの企業家たちと相通ずるものがあったように思われます。

(1) 近代を拓く(渋沢栄一)

 天保11年2月(1840年3月)、現在の深谷市近郊で生を受けた栄一は、明治2(1869)年、新政府に仕官することとなり、6年前の天保5年12月(1835年1月)に土佐で生まれた弥太郎よりも、一足先に国の近代化の現場に参画することとなりました。

 旧主である15代将軍徳川慶喜の直接の推薦で慶応3(1867)年、フランスに渡航した栄一は、幕府の崩壊直後に帰国しましたが、やがて、東京の新政府から名指しでスカウトされ、民部省租税正(そぜいのかみ)という要職に任ぜられ、次いで改正掛という新しい部局の長に就任することとなりました。改正掛の任務は、近代国家形成の青写真と、そのためのロードマップを描くことにあり、いわば経済の改革と近代化の司令塔ともいうべき重要な部局でありました。栄一のように農村の出身で、約1年半にわたるフランスでの経験があったとしても、明治新政府とは全く関係のなかった29歳の青年を、このように枢要な地位に抜擢したことは、変革実現への政府の強い意志を表していました。

 新潟県の農村出身の前島密の場合も、洋学の知識を買われて栄一とほぼ同時期に改正掛にスカウトされ、近代郵便制度の創設に大きな功績を挙げました。そしてこれも幕藩時代の身分や出自とは無関係に、有能な人材を集めようという、当時の新政府が見せたスクラップ・アンド・ビルドのすさまじさの一端を示すものでした。

 私どもの財団のデータベースによれば、改正掛は特命によって省庁横断的な形で設けられた部局であり、その責任者として栄一が関わった案件は、全国の測量、鉄道の敷設、関税率の制定など30項目以上にのぼっており、近代国家形成の基盤となる事案の大半を網羅していました。中でも緊急の課題の一つは、後に弥太郎の仕事とも関係してくる廃藩置県とそれに伴う藩札の整理という難問でした。改正掛は、時価による交換を提案し、そのために必要な紙幣合計1億円の印刷を、ドイツに発注しました。ちなみにその紙幣は明治通宝札、通称ゲルマン紙幣と呼ばれ、今も日本銀行の貨幣博物館にその実物が展示されています。

 またさらに困難だったのは、代々世襲によって約束されてきた収入の道を、突然失うこととなった武士階級の生活の支援という課題で、まかり間違えば、生まれたばかりの新政府を転覆させかねない困難な問題でした。強い危機感に突き動かされた栄一は、何日も続けて、ほとんど徹夜の状態で、数千枚に及ぶ緊急対策の要綱を書き上げて提出したということです。30代初めの若さとはいえ、そのエネルギーと能力は驚嘆すべきものとして、政府内部でも広く認められ、伊藤博文、井上馨、大隈重信などトップの指導者たちとの間に、親密な友情と信頼関係を作りました。

 このように高級官僚としてのキャリアを半ば約束されていたにもかかわらず、栄一はあえて民間人として活動する道を選択し、明治6(1873)年、大蔵省を退官。設立されたばかりの日本最初の西欧型金融機関である第一国立銀行の総監役に就任することになりました。そしてそれ以後60年近くにわたる長い生涯を、民間人として活動を続け、官界に戻ったり、政治の世界に関与したりすることはほとんどありませんでした。

(2) 三菱の台頭(岩崎弥太郎)

 一方の岩崎弥太郎が本格的な企業活動に着手したのは、明治4(1871)年の廃藩置県以来のことで、旧土佐藩所有の船舶の運営をテコに、全国を舞台として海運業を展開します。弥太郎にとって幸運だったのは、明治7(1874)年2月には佐賀の乱、同じ年の5月には台湾出兵など、旧士族の不満を背景とする争いが起こり、軍隊の緊急輸送を可能にするため、政府が海運の増強に全力を挙げることになったことでした。具体的には13隻の外国船を購入し運航を委託、さらに翌年にはそれを払い下げ、運営する民間企業に、向こう15年間で年額25万円の補助金を支給することを決めました。そしてその恩恵をフルに受けることになったのが、明治8(1875)年「郵便汽船三菱会社」と名付けられた弥太郎の事業でした。

 創業直後の弥太郎の会社への大型助成の提供は、官民の違法な癒着であるとして朝野の批判を招きましたが、民間海運業の育成を国の存続に関わる緊急課題と考えていた新政府は、それを無視して、三菱への支援を継続しました。『大久保利通伝』の記述によれば、その背景には、弥太郎と面談した大久保利通が、その面構えを見て、「外敵に当たり、断固その目的を遂行しうる」人物と判断したことがすべての原因だったということです。弥太郎の側も「政府がそのように自分を重視してくれるなら……」と全力を挙げて期待に応える決意をしたということです。

 不平士族による内乱の脅威と並んで、政府はそのころ日本の海運業を外国船舶の進出から守るという課題を抱えていました。特に慶応3(1866)年、パシフィック・メールという汽船会社がサンフランシスコと上海の間に航路を開設し、さらに米国政府の助成金を得て、サンフランシスコ・横浜・神戸・長崎・上海の定期航路を開き、東京・大阪の内国航路にも進出していました。そうした動向を安全保障上の脅威とみなした明治政府は、これに対抗するため、明治8(1875)年1月、三菱に上海定期航路の開設を命令します。パシフィック・メールは運賃の引き下げでこれに対抗しましたが成功せず、日本側は同社の上海航路の一括買収を提案し、政府は三菱に対して汽船4隻、支店や倉庫などの施設を含めて80万円の買収費(15ヵ年年賦)を提供し、同年10月、パシフィック・メールは上海航路から撤退しました。

 さらに三菱にとって極め付きの好機となったのが、明治10(1877)年2月に始まった西南戦争でした。かねてから政府が恐れていたように、西郷隆盛が率いる鹿児島私学校生徒1万5,000に、九州各地の不平士族が合流し、反乱軍の兵力の合計は3万、明治政府にとっては存亡を懸けた戦いとなりました。政府は陸海軍総勢7万の兵力を投入し、8ヵ月の戦闘ののち、9月24日、鹿児島の城山で西郷が自刃し、ようやく勝利を確定することができました。そしてこの間、三菱は全力を挙げて政府軍とその機材や物資の輸送に当たり、自社船38隻のほか7隻の外国船を購入し、終戦の時点では61隻の船舶を運航し、全国海運の73%を独占することとなりました。

 この戦争のために政府が支払った戦費の総額4,156万円の10%以上が海上輸送のための経費で、明治10(1877)年には三菱は444万円の収入を上げ、そのための経費は約322万円、差し引き約120万円という破天荒な利益を計上することになりました。

 ちなみに明治9(1876)年7月に設立された三井物産は、初年度の純益は8,000円でしたが、翌明治10(1877)年には西南戦争関連の食料や物資の調達など、軍関係の取引が急増し、この年は20万円の純益を獲得したといわれています。もちろん当時の20万円は大きなお金で、新設の三井物産の基礎固めに大きく貢献しましたが、三菱の場合は、これと比べても比較にならないほど大きな成果を上げたことがわかります。

 政商という批判があったとしても、新政府の置かれた戦略的な立場を正確に理解し、大久保利通のような最高責任者との人間的つながりを確保し、もてる資源のすべてを大胆敏速に投入し、当時の日本の経済規模では考えられないような巨額の利益を獲得した弥太郎の経営手腕には驚くべきものがありましたし、また事業の全権を社長の独裁に集中するという理念にも日本離れした新しい経営のエートスがありました。

 明治8(1875)年5月に制定された三菱汽船会社の規則によれば「会社は岩崎一家が所有運営するもので、社長が全権を掌握し、利益も損失もすべて社長一個に帰属する」と明確に記載されています。そして「当社はしばらく会社の名を冠し、会社の体を成すと云えども、その実全く一家の事業にして、他の資金を募集して結社するものとは大いに異なり、故に人事賞罰を含め、会社に関する一切のことはすべて社長の特裁を仰ぐべし」と明記しています。

 三井や住友など、江戸時代以来の伝統を持った大企業では、リスク管理を重視し、創業家の人々はなるべく事業の前線を離れ、専門管理者による運営を目指すのが通例で、それが日本的経営の特質の一つとして定着していました。これに対して利益も損失もすべて社長が独占し、経営戦略は即断即決、人事、賞罰などすべてが社長の専権だと高らかに宣言する弥太郎の発想は、それまでとは全く違う新しい企業文化の幕開けを象徴していました。

(3) 抜群の人材(渋沢栄一)

 一方、栄一が持って生まれたほとんど天才的な経営・管理能力は、すでに多くの関係者の注目を集めていました。たとえば幕末にフランスに渡航したとき、栄一は将軍慶喜の弟をはじめ30名ほどの代表団の庶務係を務めていましたが、約1年半に及ぶフランス滞在に加えて、西欧各国を歴訪し、明治元(1868)年に帰国したときには、その間の複雑な金の出入りを詳細に記録し、正確な会計報告を作成しただけでなく、現地での資産運用の成果を含めてかなりの剰余金を返金して、旧幕府の経理担当者を驚かせたという話が残っています。

 このような、天賦の事務能力に加えて、新政府の高級官僚として近代化の先頭に立って活躍した4年弱の実績やその間に培った人脈は、貴重な経営資源であり、栄一の身柄は、当時日本で一、二の実力を誇っていた三井、三菱という二つのグループの双方から目をつけられることとなりました。

 三井は、その系譜を辿ると平安時代にさかのぼり、江戸時代には呉服店と並んで両替商を経営、維新後は第一国立銀行の設立に参加するほか明治9(1876)年には旧・三井物産を発足させるなど時代の変化に敏速に対応していました。そうした変革の中心にあって、難しい舵取りに当たっていたのが三野村利左衛門という人物でした。そしてその三野村が、自分の後継者として栄一に目をつけた経緯については、栄一自身がのちの談話(雨夜譚会談話筆記、1926-27年)の中で、「三井の三野村利左衛門という人は、この世の中は新知識が必要であるとして、自分の後任には私をしようとし、三井の紋服をくれたりしたが、私は三井の相談相手にはなるが、番頭にはならぬ。然し三井のためには尽くしてやろうと思った。これが私と三井を親しくした原因である」と述べています。

 紋服だけでは足りないと考えたのか、栄一の長女歌子の思い出によれば、あるとき三井家の人々が総出で、栄一と妻の千代をもてなすための大宴会が行われたことがありました。相手は日本一の大金持ちであり、静岡から上京して間もない千代は、着て行く着物にも苦慮しましたが、結局のところ、地味だけれども高級なお召しを誂えて、栄一と共に出席して堂々とした振る舞いを見せたということです。

 一方の三菱は、弥太郎自身が栄一に向かって、君と自分が二人でやれば日本の実業のことは何でもできるといって、単刀直入に三菱の事業への参加を要請しました。栄一はこのときの経緯を次のように説明しています。「三菱の方は岩崎弥太郎氏が私の主張する会社組織は駄目だぞと云い、自分と二人で独裁的にやれば日本の実業のことは何事でもやれると共同を申し込んできた。あるとき、船遊びの用意がしてあるから、と云って度々使いを寄越すので、岩崎のいる柏屋へ行くと、芸者を14-5人も呼んでいる。二人で船を出して網打ちなどしたところ、岩崎氏は『実は少し話したい事があるのだが、これからの実業はどうしたらよいだろうか』というので私は『当然、合本法でやらねばならぬ、今のようではいけない』と云った。それに対して岩崎は『合本法は成立せぬ。も少し専制主義でやる必要がある』と唱え、『合本法がよい』『いや合本法は悪い』という議論になった」。そこで栄一は機を見て数人の芸者を伴って退席したといわれています。

 この船遊びの件については弥太郎と栄一が激論の末、物別れになったという文脈で評判になりましたが、実際には弥太郎が栄一を自分の事業に勧誘し、栄一がそれを謝絶したということだったようです。とはいっても三井のような優雅で高級な接待とは違って、直ちに独裁経営か、合本法かという本音の議論となりました。ずっと後になって栄一の孫の渋沢敬三が、祖父の伝記資料編纂の一環として、この点を栄一に問いただし、「それでは岩崎弥太郎さんとは険悪になったという程ではないのですね」と念を押したのに対して栄一は「険悪になったのではない。双方考えが違うのだ。おのおの長ずるところでやろうという程度であった。」と答えています。

(4) 協力「東京海上」

 明治11(1878)年の時点では、日本初の海上保険会社の設立が議論されていましたが、この件では栄一と弥太郎が協力し、大隈重信など政治家をも巻き込んで会社の設立に漕ぎつけました。財団のデータベースには、この件を巡っての当時の有名人たちの間の交流の模様について興味深い記載がありますのでご紹介したいと思います。

 この日栄一と弥太郎は、当時雉子橋(きじばし)にあった大隈重信の邸を訪ねます。たまたま福沢諭吉も来ていて、まず栄一と福沢が将棋を指すこととなりました。栄一によれば、「福沢はなかなか口が悪く、商売人にしては君は将棋が強いというから、私もヘボ学者にしては君も強いと応酬した」ということで、多忙な中でもエリートたちの間にはゆたかな時間が流れていた様子が見られます。

 保険会社設立の背景には栄一が官僚時代から主張していた租税の金納化の問題がありました。栄一の退官後、明治6(1873)年末から7(1874)年にかけてそれが本決まりとなりましたので、税金を払うためにはお米を市場のある都会まで運搬しなければならなくなり、そのためには運送中の危険を担保する保険が不可欠となりました。

 大隈邸での会合では、将棋のあと栄一がその件を持ち出すと、「結局渋沢は利己主義から主張するのである」と言われました。ところが、一人大隈が「それは是非やらねばならぬ。保険を実施しないと金融が成り立たない」といって賛成したということです。その後紆余曲折を経て弥太郎が資本金60万円のうち11万円を出資することで合意し、明治11(1878)年12月12日、東京府の営業許可を得て東京海上保険会社が創立の運びとなりました。

(5) 対立「日本郵船」

 このように弥太郎と栄一は必要に応じて協力していましたが、明治15(1882)年に始まった海運業の競争に際しては、事実上、敵味方に分かれて対峙する形となりました。弥太郎の強引な手法による、海運市場の事実上の独占は、かねてから同業者はもちろん経済界全体に強い批判や嫉妬を招いていましたが、たまたま明治11(1878)年5月に大久保利通が暗殺され、さらに明治14(1881)年には別件で大隈重信が失脚したのを機会に、長州系の品川弥次郎、井上馨などが中心となり、栄一もこれに与して、反三菱連合ともいうべき「共同運輸会社」を設立し、今度はこちらが政府の補助金を得て三菱に対抗することになりました。その結果は、日本では珍しく、採算を度外視した抗争が実質2年半にわたって続くことになりました。

 弥太郎は満々たる闘志を燃やしていましたし、競争継続のための力も大きかったと思われますので、これが長く続けばどんな結末になったかわかりません。ところが弥太郎にとっては非常に不幸なことに、競争の最中に悪性の胃ガンを発症し、当時考えられるあらゆる療法を試みましたが、明治18(1885)年2月7日、母の美和、妻の喜勢、弟弥之助のほか数名の幹部社員が見守る中で、非常な痛みと苦しみに耐え、「東洋の男児と生まれ、志したことの十のうち一か二しかできないうちに今日に至ってしまった。もはや如何ともし難い」という悲痛な言葉を遺して50年の劇的な生涯を終わりました。

 明治18(1885)年2月16日、16歳年下の弟の弥之助が2代目社長に就任しました。兄の闘志に加えて、その持論であった独裁経営の理念は堅持しながらも、弥之助は事態の収拾に向けて舵を切り、同年9月25日、両社が合併して日本郵船を設立するという形で決着しました。郵船は、資本金は三菱500万、共同運輸600万、計1,100万となっていましたが、三菱系の株主が多く、実質的には三菱の会社として、同年10月1日、弥太郎の死後8ヵ月目には早くも営業を開始しました。

(6) 日本的システムとの共生(岩崎弥之助)

 一方の栄一は、その後も第一国立銀行を拠点として、約500の会社の設立と経営に参画し続けました。そしてこれらの企業は、製紙から紡績、鉱山から製造業、鉄道から海運、理化学研究所など公共的な事業から生命保険、ホテルから劇場、さらにリゾート開発に至るまで、生まれたばかりの日本の近代産業のあらゆる分野を網羅していました。

 栄一は、新しい事業を興そうとする多くの人々に支援を惜しみませんでした。彼はこれらの企業家たちに、銀行からのローンの組み方や、正確な財務諸表の作り方などを指導し、しばしば発起人名簿に名を連ね、開業のための資金の一部を自ら投資しました。しかし、その結果、会社が無事設立され経営が順調に進むのを見定めると、多くの場合、自分の持ち株を売却し、その資金を次の新しい企業の支援に充当しました。企業を自分のものとして、富の蓄積を目指すという発想は希薄で、もっと別の目的、すなわち日本の近代化そのものの推進者ないし支援者の役割に徹していたように思われます。

 そうした栄一の行動やその真意が次第に世間に理解されるようになる一方、栄一の主導で立ち上げた拓善会(現・全国銀行協会)、東京商法会議所(現・東京商工会議所)などの業界団体の権威が認められるに従って、それらの会長や理事長としての活動を通じて、社会や国の利益を優先する栄一のリーダーシップが次第に広く評価されるようになりました。

 明治24(1891)年に三井の運営に新しく参加した中上川彦次郎が、グループの工業化路線の強化策の一環として、カネボウや芝浦工業所等と並んで王子製紙について、渋沢栄一にその持ち株の譲渡を要請してきました。王子製紙の前身となる抄紙会社は明治6(1873)年、栄一自身の発意で設立された日本最初の本格的製造業で、栄一が非常な苦労をしてようやく育て上げたという歴史があり、そう簡単には応じないだろうと三井側でも考えていたようですが、案に相違してあっさりとその要請を受け入れて、世間を驚かせました。

 日本郵船の場合は、明治26(1893)年、弥之助が栄一を自宅に訪問し、「運輸事業は公共事業であり、日本郵船が岩崎家の事業のように思われているのは望ましくない。貴方は早くから運輸事業に着目して多大の抱負もお持ちなのだから、この際、是非、日本郵船の経営に参加して、同社が一家の事業ではなく、公共的な事業であることを天下に知らしめてほしい」と辞を低くして懇請しましたので、栄一も過去を水に流して郵船の役員として協力することとなりました。

 弥之助は兄の死後もその経営方針を継承し、鉱山から造船、金融、丸の内地区等の10万8,000坪余りの土地の買収を契機としての不動産事業に至るまで多方面に手を延ばしましたが、栄一はその活動を評して、「弥之助氏は弥太郎氏とその性行を異にし、きわめて公平に、きわめて温厚親切の士君子なりき。弥太郎氏をもって創業の人とせば、弥之助氏は実に非凡なる守成の人なり」と書き残しています。

 創業家の人々による独裁的な経営を続けることは難しいことで、多くの会社が途中で挫折したり、経営権を人手に渡したりすることがよくありますが、三菱の場合は弥太郎の後を弟の弥之助、その次を弥太郎の長男の久弥が継ぎ、その久弥は50歳になったのを機に、大正5(1916)年7月、社長の地位を弥之助の長男小弥太に譲り、昭和20(1945)年、占領軍の命令でグループそのものが解体を迫られるまで、70年を超えて岩崎家による独裁経営が継続しました。それは弥太郎の理念と信条が、弥之助以下の後継者たちによって見事に伝承されたことを示したものと思われます。

(7) 婚礼

 ここで私事に亘って恐縮ですが、大正11(1922)年5月23日に華族会館で行われた結婚式の写真をお目にかけたいと思います。中心におります新郎は栄一の嫡孫で跡取りの渋沢敬三で、前の年に東京帝国大学の経済学部を卒業し、横浜正金銀行に就職、近くロンドン支店への転勤を予定していました。そして新婦の木内登喜子は、敬三の中学時代の同級生の妹で、たまたま岩崎弥太郎の次女磯路の2番目の娘で、弥太郎からすれば孫娘に当たっていました。

渋沢敬三結婚記念撮影 華族会館(大正11年5月23日)
(出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第10, p.234)

 敬三の左隣は媒酌の和田豊治氏、その隣が弥太郎の未亡人、岩崎喜勢、次が新婦の両親木内重四郎・磯路夫妻、左端には岩崎久弥夫妻が並んでいます。2列目の中央は弥太郎の長女春路の夫で、大正13(1924)年6月から同15(1926)年1月まで首相を務めることとなる加藤高明、その右は同じく三女雅子の夫で、敗戦後の昭和20(1945)年、米軍の占領下で首相を務めた幣原喜重郎、3列目で、この二人の間に立っている体の大きい人が、当時の三菱合資会社社長岩崎小弥太、前列に戻って新婦の一人おいて右側が渋沢栄一夫妻、一番右側は栄一の娘婿で学士院院長、枢密顧問官などを務めていた穂積陳重夫妻となっております。

 栄一は表向きには故弥太郎に対して何の含むところもなく、経営理念が違っていただけだと繰り返し語っています。しかし、共同運輸設立当時の状況については「その頃岩崎家は殆ど海運事業を一手に収めたる観あり、例の弥太郎氏の烈しき営業振りなれば、世間にも非難起こり、余もまたその非難者の一人たる地位に立ちたり」と述べているように、経営思想だけではなく、弥太郎の人生観や行動様式に対して、かなりの違和感を覚えていたように思われます。

 従って大事な跡取りの敬三が、弥太郎に縁の繋がる女性と結婚することには反対するのではないかと家族の間では取りざたされましたが、実際にはそのようなことはなく、この披露宴では、敬三と登喜子は、栄一はもとより岩崎家の人々からも祝福を受け、このように大型の家族同士の団らんという光景を実現することができました。

(8) 敗戦

 ところが縁というものは不思議なもので、このおめでたい集まりのときから19年後の昭和16(1941)年12月、日本帝国海軍が真珠湾を攻撃し、その4年後の昭和20(1945)年8月には日本が無条件降伏を受け入れることになりました。明治以来、弥太郎や栄一が心を尽くして築いてきた日本の経済の大半が壊滅し、10月には幣原内閣が誕生、このときの若い新郎で、当時は49歳になっていた敬三が大蔵大臣を拝命することとなりました。

 「とんでもないことです。この危機的な状況の中で、財政の責任を負う事など私には到底できません。」と、当時、日銀総裁を務めていた敬三は丁重に辞退しました。それに対して、73歳の老躯を押して組閣の大命を受けたばかりの幣原は「実は私も昨日天皇から呼ばれて組閣の要請を受けた。当然ながら老骨でもあり、とてもそのような任務はつとまらないと申し上げご容赦を願った」と言いました。

 幣原氏は大正末期から昭和にかけて何回も外務大臣を務め、いわゆる幣原外交の主宰者として有名な人でした。しかし、それは外務大臣初就任から20年も経過してすでに73歳となり、五百旗頭真著『占領期:首相たちの新日本』によると、世間からも半ば忘れられた存在でした。寄る年波に加えて、5月の空襲では住み慣れた家と貴重な蔵書を失い、健康も害し、気分的にも落ち込んでいました。鎌倉に引退して余生を送ろうと考え、当時は確保することが困難だったトラックをやっとの思いで手配し、荷物を積み込みました。そしていよいよ出発という間際に天皇から呼び出しがあったということです。

 昭和天皇は悲痛なお顔で、「この時勢で政局に自信のある者は誰もいない、だからこそ枉(ま)げて頼むのだ」といわれました。その御様子を見て幣原は深く心を打たれ、命がけで引き受ける決心をしました。「この際、閣僚の仕事を喜んで引き受けるという者は一人もいない。ここはしかし、是非、君に受けて貰いたい」。妻の縁に繋がる幣原に、天皇を引き合いに出されては敬三も返す言葉がなく、やむなく承諾しました。

 こういう状況の中で生まれた幣原内閣は、しかし非常に質の高い内閣となりました。幣原自身、天皇の要請に応えた瞬間から奇跡的に健康が回復し、気力もよみがえったといわれています。長い間、国の政策に横車を押し続けてきた軍部はもはや存在せず、一方、小うるさい政党はまだ誕生していませんでした。婦人参政権や労働組合法など、革新的な法令が年内に成立するなど、異例の早さで改革が進みました。

(9) 三菱の解体(岩崎小弥太)

 総司令部は「日本経済の大部分を支配してきた産業上及び金融上の大コンビネーションを解体する」という大方針の下に、まず三井、三菱、住友、安田の四大財閥の解散を強行しました。最初に安田保善社が自発的に解体受け入れの意向を表明し、住友本社、三井本社もこれに同調する気配となりましたが、岩崎小弥太だけは「三菱はかつて国家社会に対する不信行為を成したことがなく、自発的に解体する理由は全くない」と主張して抵抗の姿勢を見せました。

 昭和20(1945)年10月23日、敬三は単身小弥太を訪れ、状況を説明し、占領軍の命令の受諾を説得しました。しかし、それでも譲らなかった小弥太は体調を崩して入院、本社幹部がやむなくこれを受け入れることとなりました。後になって敬三が「幣原さんは三菱の親戚でもあり、三菱だけをそのままにしてはおけなかった」と当時を述懐したのを記憶しております。結果として同年11月1日の株主総会で、小弥太社長、彦弥太副社長(久弥の長男)の退任と、三菱財閥の解体が決議されました。

 「本社はいかなる形となるとも、我らの永き精神的結合は連合軍も如何ともし難いことと思う。諸君のご健康を祈り、ますます事業のために奮闘されんことを祈る」。かねてから老人性動脈硬化症を患っていた小弥太は、このように、悲痛ではあっても前向きな言葉を遺して12月2日、66歳の生涯を閉じました。かつて栄一も言ったように、弥之助は弥太郎の遺志を継承しながらもバランスのとれた性格であり、久弥は経営者としては有能でしたが、性格的には父の弥太郎とはひと味違った知識人だったのに対し、弥太郎の性格の強さを一番色濃く受け継いだのは小弥太だったのかもしれません。

(10) 結び・企業文化の違い

 弥太郎の行動様式は、日本よりアメリカの企業家のそれに近かったのではないかと何回か申し上げてきましたが、お話の結びとして、弥太郎と同じく19世紀後半という時代に驚異的な成長を遂げ、世界最大の産業国家となったアメリカと日本の企業文化について少しコメントしてみたいと思います。

 日本では明治元(1868)年、明治新政府の成立を境として、弥太郎や栄一のような独特の経営者が現れて急速な近代化を推進しましたが、アメリカでは、1865年、南北戦争の終息が契機となって、広範な社会変革が起こり、その中からロックフェラー、カーネギー、モルガンなど天才的な企業家が続出し、経済の枠組みが大きく変わることとなりました。

 1839年に生まれたジョン・ロックフェラーは、弥太郎より4歳年下、栄一よりは1歳年上でした。アンドリュー・カーネギーは弥太郎と同い年、1837年生まれのJ.P.モルガンは2歳年下、というわけで、彼らは明治日本の企業家たちとほぼ同じ時代に活躍することとなりました。

 ルイジアナ、テキサス、カリフォルニア等南西部諸州の併合、さらにアラスカの買収により、アメリカ合衆国は広大な国土と資源を手にする一方、海外からの軍事的な脅威からも解放され、大躍進のときを迎えました。1869年には大陸横断鉄道が開通し、産業資本の蓄積が進み、大量の移民の流入もあって、1894年には工業生産額で世界一を達成しました。

 1870年、39歳の弥太郎が三菱蒸汽船会社を創立する4年前、当時31歳のロックフェラーはスタンダード石油を設立し、原油の掘削、精製、販売という一貫システムを構築、同業者の買収を積極的に進めた結果、19世紀末の1897年ころには全米石油市場の90%を支配し、資産9億ドル、現在の価格では2,000億ドルといわれる巨大な資産を手にしました。

 計算できないほどの巨大な経済力を手にしたとき、人は何をしようとするのでしょうか?明治10(1877)年、西南戦争で巨富を得た弥太郎は、翌年には向島の清澄庭園の約3万坪、さらに駒込の六義園を中心とする12万坪近い地所を購入しました。双方とものちに東京市に寄付され、現在は美しい公園として公開されています。このようなお金の使い方の背後には、後の弥之助による丸の内地区等の10万8,000坪の購入にも繋がる、非日本的な発想が見られるようです。

 ロックフェラーは、大学や病院、研究所などへの巨額の寄付を行い、その息子は、南仏やイタリアで中世期に建てられた美しい修道院の石組みや庭木や花壇などをニューヨークに移し、現在ではクロイスターズという名でメトロポリタン美術館が分館として運営しています。ロックフェラー一族は、さらにクロイスターズに面するハドソン川の対岸の景観が失われることを恐れて数百エーカーに及ぶ川岸の森林を手に入れ、現在はニュージャージー州によって公園として管理されています。

 三菱と同様、ロックフェラーも、資産の拡大に伴って、経済界はもちろん社会一般の激しい嫉妬と批判に曝されましたが、各州で別々に成立した独占禁止法関連の規制の網の目を巧みにかいくぐり、会社にとって比較的有利だったニュージャージー州の法律に基づいて全国規模のトラストを発足し、ますます大きな富を手にすることとなりました。

 この点では、弥太郎の死去という予期しなかった事情があったとしても、三菱が日本郵船の設立に合意することで、日本的経営システムとの共生を選択したのとは対照的でした。米国では、独占禁止を初め各種の規制強化の動きはあっても、多くの企業家は今なお独自の立場を堅持してアメリカンドリームの実現を目指しているように思われます。リーマンショック以降、金融業者の行動や経営者への高額な報酬への批判が強くなってはいますが、世論調査の結果は、自由企業の原則を守りぬくことこそがアメリカの正義であり、繁栄の基盤であるという回答が今でも70%を超えています。事実こうした社会環境のもとで、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなどの大富豪が次々と登場し、寄付という形でGDPの数%といわれるほどの巨額な公益事業費を負担しています。

 寄付に関しては栄一も生涯を通じてきわめて積極的で、自分の家計を割いての寄付だけでも数百万円にのぼっていますが、日頃国土の狭さ、資源の乏しさ、外敵の脅威などによる、日本経済の限界を強く感じていたようです。大正末期に、孫の敬三の質問に答えて「日本は外国に対し自ら働きかけることができない。かなり進んで来たとは云っても、米国などに較べると力が少いから進歩が遅い。」と嘆いています。そして近頃は日本の企業も外国に店を出し海外の事業が増えているという別の人のコメントに対しては「そうならなければ駄目だ。なにぶんにも国が痩せているから、日本は内のみにいては駄目である。」とやや悲痛な言葉を返しています。

 広大な国土と資源に裏付けられたアメリカ資本主義は、グローバルスタンダードとして長い間広く世界に受け入れられてきましたが、リーマンショック以来、新興諸国の台頭もあって、世界経済の中での立場や役割が変わろうとしているように見られています。栄一や弥太郎が存命であればこうした状況にどう対応しようとするか、遺された私たちも、改めて考えなければと思っている次第です。

 大変雑然としたお話になりましたが、多少ともご理解や共感をいただければ幸いです。


岩崎弥太郎写真:国立国会図書館所蔵
ウェブサイト掲載にあたり原文の一部を改稿しました。

掲載:2022年3月18日