情報資源センターだより

83 『論語と算盤』を再刊した出版社「忠誠堂」について

『青淵』No.905 2024年8月号|情報資源センター 若狭正俊

 情報資源センターでは渋沢栄一の代表的な書籍『論語と算盤』のデジタル化プロジェクトを進めています。2024年3月には「論語と算盤オンライン」を公開し、初出の出版者である東亜堂書房版『論語と算盤』(再版)をインターネット上で「いつでも、どこでも、だれでも」読めるようにいたしました。ご活用いただければ幸いです。

・論語と算盤オンライン
 https://eiichi.shibusawa.or.jp/features/rongotosoroban/

 『論語と算盤』は1916(大正5)年に東亜堂書房から刊行されたのち、1927(昭和2)年に忠誠堂から再び刊行されています。忠誠堂は株式会社東亜堂から『論語と算盤』を含む出版物の紙型を引き継いだと考えられている出版社です。戦後に復刊された『論語と算盤』には、この忠誠堂版を底本にしたものが多く、このことから同書の初出は忠誠堂と誤解されることもありました。では、忠誠堂とはどのような出版社だったのでしょうか。同社の沿革を通じて、その一端を紐解いてみたいと思います。

忠誠堂の沿革と高倉嘉夫について

 忠誠堂の主、高倉嘉夫(たかくら・よしお)は、1880(明治13)年福井県の生まれ。1897(明治30)年に上京、図書の販売に従事し1899(明治32)年より自ら出版業を始めます。2024年5月現在で確認できる中では最も古い1908(明治41)年の出版物には、忠誠堂とともに忠誠堂高倉商店という記載が見られます。店名の傍らには「軍用図書及雑貨御用達」とあり、当初は主に軍事教練用の書籍を扱っていたようです。店舗は東京市神田区今川小路2丁目17番地(現・東京都千代田区神田神保町3丁目付近)にありました。

 1915(大正4)年10月6日、個人経営から合名会社忠誠堂に改組。軍用図書に加えて精神修養や歴史的偉人の伝記を主題とした書籍の出版が増えていきます。1921(大正10)年12月24日に合名会社を解散し個人経営に戻りました。高倉嘉夫は1924(大正13)年5月に行われた国会議員選挙で、故郷福井県から立候補しましたが、落選しています。合名会社を解散させたことと政界進出との関係は不明です。また、個人経営になってからも出版活動は精力的に行われました。忠誠堂は次に述べる合資会社設立までの期間に最も多くの書籍を刊行しており、その盛況ぶりが伺えます。そうした最中の1927(昭和2)年2月5日に忠誠堂版『論語と算盤』が、翌1928(昭和3)年1月15日に改版が刊行されました。

 1931(昭和6)年6月20日、合資会社忠誠堂が新たに設立されますが、設立から間もない1932(昭和7)年2月26日に高倉嘉夫は風邪のため亡くなっています。同年の夏、創業者を失った会社は神田区今川小路を離れ、同区一ツ橋通町(現・千代田区一ツ橋)へ移転。なお、合資会社設立時から代表社員は高倉数馬に代わっています。彼について詳しい情報は見つかっておらず、高倉嘉夫との関係も不明です。合資会社時代の出版物は数冊確認できるのみで1933(昭和8)年5月には同住所に高倉数馬を含めた数名による別の出版業者が設立されていることから、この前後で合資会社忠誠堂は解散したものと思われます。

 高倉嘉夫が亡くなって1年後、1933(昭和8)年4月23日、妻の高倉松(まつ)を代表社員として合名会社忠誠堂が設立されます。住所は高倉家の自宅があった渋谷区氷川町1番地(現・渋谷区東)。社員には息子の高倉嘉三(たかくら・よしぞう)の名前もありました。1934(昭和9)年に神田区西神田(現・千代田区西神田)へ移転。翌年より高倉嘉三に代表の名義が変わっています。同社の足取りが確認できるのは1938(昭和13)年までで、その後は不明。高倉嘉三については、1942(昭和17)年8月から10月のわずかの期間ですが高倉忠誠堂の代表者として確認できます。住所は神田区西神田2-13。同社はその後、戦時企業整備により株式会社東亜春秋社と合併します。その一方で高倉嘉三は再び忠誠堂を設立したようで、1943(昭和18)年3月まで書籍の刊行があったことがわかっています。東亜春秋社は1947(昭和22)年10月16日に解散しており、高倉忠誠堂はそのまま消滅したようです。戦後、高倉嘉三と忠誠堂がどうなったのかはわかっていません。創業者、高倉嘉夫から続く高倉家の忠誠堂はこうして記録の上から姿を消しました。

忠誠堂版以降の『論語と算盤』

 ところがこの忠誠堂の変遷には続きがあります。高倉忠誠堂と同時期に図書出版忠誠堂という出版社が営業していたのです。代表者は尾崎楠太郎。淀橋区東大久保1-430(現・新宿区新宿5・6丁目付近)に店舗を構え、1942(昭和17)年5月までには株式会社忠誠堂に改組、住所を神田区鍛冶町2-2(現・千代田区鍛冶町)としています。尾崎について高倉家との関係性はわかっていませんが、同社のあった東大久保の土地には一時期高倉家の忠誠堂が店舗を構えており、また高倉忠誠堂が刊行した書籍に、著者に出版を勧めた人物として尾崎の名前が出てくるので忠誠堂の経営に関わりがあった人物かもしれません。

 更に1943(昭和18)年6月前後、前述した淀橋区東大久保1-430で榛名書房という出版社が営業を始めます。代表者は尾崎楠太郎。図書出版忠誠堂があった場所に戻ってきていたのです。同社もまた戦時企業整備により他社に合併されますが、戦後に代表者と住所を変えて営業を再開しているようで、1947(昭和22)年8月までは存在を確認できました。榛名書房について尾崎が代表を務めた株式会社忠誠堂を改称したものなのか、同じ場所にまったく別の会社を設立したものなのかは不明ですが、同社から1943(昭和18)年11月、『論語と算盤』が刊行されていることがわかっています。戦時下の出版物ということもあって、内容は一部割愛されています。奥付には「再版発行(二、〇〇〇部)」とあり、また初版を1928(昭和3)年1月15日としていて、忠誠堂版の改版発行日と一致します。直接忠誠堂版を底本としたという記述があるわけではありませんが、榛名書房と高倉家の忠誠堂に何らかのつながりがあったことは伺い知ることができそうです。

おわりに

 冒頭で述べた通り、戦後復刊された『論語と算盤』は忠誠堂版を底本としたものが多くあります。初出である東亜堂書房版と今日の復刊や現代語訳、漫画版などをつなぐ出版社として、忠誠堂は重要な役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。


【参考リンク】

・デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 18款 栄一ノ論語ニ関スル講演談話ヲ編集セルモノ 1. 論語と算盤
 https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK410086k_text

『論語と算盤』デジタル化プロジェクトについては、以下も参考になさってください。

・『論語と算盤』の源流を探る
 https://www.shibusawa.or.jp/center/newsletter/854.html
・『論語と算盤』の出版者「東亜堂書房」について
 https://www.shibusawa.or.jp/center/newsletter/893.html
・『論語と算盤』の編者「梶山彬」について
 https://www.shibusawa.or.jp/center/newsletter/896.html
・『論語と算盤』のシリーズや価格などについて
 https://www.shibusawa.or.jp/center/newsletter/902.html

【補遺:年表によるまとめ】

1899(明治32)年 高倉嘉夫が東京で出版業を始める(個人営業)
1908(明治41)年頃 出版物に忠誠堂、忠誠堂高倉商店と記載
1915(大正4)年10月6日 合名会社忠誠堂を設立、代表者高倉嘉夫
1921(大正10)年12月24日 同社解散、忠誠堂として個人経営となる
1927(昭和2)年2月5日 忠誠堂から『論語と算盤』刊行
1928(昭和3)年1月15日 『論語と算盤』改版刊行
1931(昭和6)年6月20日 合資会社忠誠堂設立、代表者高倉数馬
1932(昭和7)年2月26日 高倉嘉夫死去
1933(昭和8)年4月23日 合名会社忠誠堂設立 代表者高倉松
1935(昭和10)年頃 忠誠堂の代表が高倉嘉三になる
1942(昭和17)年 高倉忠誠堂が営業 代表者高倉嘉三
図書出版忠誠堂が営業 同年、株式会社忠誠堂に改組 代表尾崎楠太郎
1942-44(昭和17-19)年頃 高倉忠誠堂は東亜春秋社に合併
一方で別の忠誠堂の営業あり 代表高倉嘉三
1943(昭和18)年 榛名書房が営業 代表者尾崎楠太郎
1943(昭和18)年11月 榛名書房から『論語と算盤』刊行
1944(昭和19)年頃 榛名書房は合資会社千倉書房に合併(榛名書房は戦後営業を再開)
1947(昭和22)年10月16日 東亜春秋社解散

※本記事は『青淵』2024年8月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。


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