情報資源センターだより

80 『論語と算盤』の編者「梶山彬」について

『青淵』No.896 2023年11月号|情報資源センター 井上さやか

 情報資源センターでは『論語と算盤』デジタル化プロジェクトを進めています。1916(大正5)年9月に刊行された『論語と算盤』は、『竜門雑誌』等に掲載された渋沢栄一の談話・講演を、梶山彬が編纂した訓話集です。情報資源センターだより79では出版者「東亜堂書房」についてについて報告いたしました。今回は、編者「梶山彬」について紹介いたします。

梶山彬の文筆活動の時期

 梶山彬は、現在の文京区小石川あたりに居を構え[1]、梶山杳丘(香丘、杏丘)や剛堂という筆名も用いて、衛生、健康法、修養書、裁縫、料理や手紙の書き方など、さまざまな分野の文筆や編纂、刊行に携わった人物です。その名を最初に確認できるのは1894(明治27)年刊の『明治武将伝』巻1「凡例」で、編者中島謙吉が「知友梶山彬氏の補助を得たり」と書いていることから、編纂に関わる何らかの手伝いをしたようです。

 梶山の文筆活動の主軸と考えられるのは、裁縫などの女性向け技芸書、参考書です。1906(明治39)年創刊の雑誌『女芸界』で編輯主任をつとめたのち[2]、明治40年代には、美術技芸研究会長という肩書で、広文堂書店より『造花術新書』『刺繍術新書』ほか「女子技芸叢書」シリーズを刊行していました[3]

 生没年は定かではありませんが、1915(大正4)年7月刊『婦人雑誌』4巻1号掲載の「女子技芸叢書」広告に並んでいた宣伝文句「梶山先生が三十年間の実地研究に基きて...」がヒントになりそうです。20歳から「実地研究」に勤しんだと仮定すると、1915年から遡ること30年+20年、1865年頃、幕末あたりの生れを想定してもよいかも知れません。

 1924(大正13)年、梶山は株式会社心友社(図書出版販売及雑誌発行業)監査役に着任し、同年12月に監査役を辞任しています[4]。翌年、同社より刊行された『通俗詳解五行易指南』という易占解説書の翻刻校訂本の校補者に「梶山杳丘」の名がありますが、以降はっきりとした文筆活動は確認できなくなりました。

梶山彬と『至誠と努力』と『論語と算盤』

 現在のところ、梶山が『論語と算盤』を編纂した経緯は判然としていません。梶山は、『論語と算盤』刊行と同年、同じ東亜堂書房より、自著『青年修養読本』[5]を刊行していますが、同書房との繋がりは、この2冊に確認できるのみです。

 ところで『論語と算盤』刊行の前年にあたる1915(大正4)年7月、渋沢栄一の講話を修養団が編纂した『至誠と努力』[6]が、栄文館書房より刊行されました。その凡例には「(前略)... 編纂、字句の修補等に関しては、特に梶山彬氏を労せしこと一再ならざるを以て、茲に記して深謝す」とあり、編纂の一端を梶山が担ったことが書かれています。

 修養団は、蓮沼門三らにより1906(明治39)年に設立された修養団体で、支援を乞われた渋沢栄一は、賛助員(後に顧問等)として活動を支援していました。渋沢の日記からは、修養団より度々来訪者があったことがうかがえます。1915(大正4)年6月20日の渋沢の日記には「修養団花見、梶山二氏来話ス」[7]と記されていました。「修養団花見」は、当時修養団幹事だった花見喜代次[8]と考えられます。日記の日付はちょうど『至誠と努力』刊行の前月にあたります。花見とともに渋沢を訪問した「梶山」は、梶山彬であった可能性も考えられるのではないでしょうか。

 梶山と修養団の具体的な関係は不明ですが、『至誠と努力』編纂のほかに、修養団の健康鼓吹員だった岩佐珍儀の著述『岩佐式強健法』(栄文館書店, 1914(大正3)年3月刊)に梶山が跋文を寄せていること、同団の機関誌『向上』9巻10号、12号(1915(大正4)年10月,12月刊)に「梶山杏丘」名の記事が掲載されていること[9]が確認できました。いずれも『至誠と努力』刊行の前後に集中しています。

 『至誠と努力』には、『論語と算盤』と同様に、渋沢の秘書役であった八十島親徳に対する謝意が記されています。両書の編纂に、この渋沢をよく知る人物の助力がどのくらいあったのか、興味深いところでもあります。梶山の『論語と算盤』編纂については、『至誠と努力』編纂への参加をはじめ、修養団や八十島親徳といった渋沢栄一を取り巻くキーワードを交え、いま一度検証していく余地がありそうです。

 『論語と算盤』が現在まで版を重ね読み継がれる1冊となったのは、渋沢栄一による言説そのものの魅力が第一であることに疑い得ません。未だわからない部分の多い編者「梶山彬」ですが、その陰の功労者のひとりでもあったかもしれないことを記しておきたいと思います。

 本デジタル化プロジェクトでは、『論語と算盤』のインターネット公開を目指し、編纂や刊行の背景、諸権利の情報についても情報収集を行っています。収集した情報は、ひろく活用できるよう今後も発信していく予定です。

 『論語と算盤』デジタル化プロジェクトについては、以下もご参考になさってください。
・『論語と算盤』の源流を探る|情報資源センターだより
 https://www.shibusawa.or.jp/center/newsletter/854.html
・『論語と算盤』の出版者「東亜堂書房」について|情報資源センターだより
 https://www.shibusawa.or.jp/center/newsletter/893.html



【注】(URLは、全て2023年11月1日確認)

[1] 『女芸界』1(1)(東京女子手芸教育会, 1906-10)、梶山彬 著『高等女芸おさいく物極意 (高等女芸叢書 ; 第3編)』 (広文堂書店, 1915-06)など。
[2] [1]参照。ほかに『官報』1906年08月27日など。
[3] 『造花術新書 : 女子技芸』(広文堂書店, 1907-04, https://dl.ndl.go.jp/pid/848793)にはじまる女子技芸叢書7冊。標題紙には「全国高等女学校美術技芸女学校 参考書」「全国高等女学校及同程度女学校 参考書」等とあって、学校等で参考書として活用されていた可能性がある。
[4] 『官報』1924年07月02日、『官報』1925年01月29日。
[5] 梶山彬 著『青年修養読本』(東亜堂書房, 1916-07, https://dl.ndl.go.jp/pid/955198)。
[6] 渋沢栄一 述, 修養団本部 編『至誠と努力』(東京: 栄文館書房,1915-07, https://dl.ndl.go.jp/pid/954890)、『渋沢栄一伝記資料』第48巻 p.125-126「6.至誠と努力(名家講演集第一編)」https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK480040k_text 参照。同書はのちに『至誠努力修養講話』(大阪: 立川文明堂, 1918-01, https://dl.ndl.go.jp/pid/959112)と改題し、刊行された。
[8] 『修養団運動八十年史 : わが国社会教育の源流 資料篇』(修養団, 1985-11, https://dl.ndl.go.jp/pid/12244849)。
[9] 梶山杏丘「天幕講習会の概報を読みて(寄書)」,『向上』 9(10), 1915-10 p63-64、梶山杏丘「出る足と退く足」,『向上』9(12), 1915-12, p33-35。

※本記事は『青淵』2023年11月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。


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