渋沢栄一Q&A

公開日: 2008.03.10

1.生涯・思想について 質問と回答

Q1渋沢栄一は、いつ生まれて、いつ亡くなりましたか。何歳の時に何によって亡くなりましたか。

A1

天保11 (1840)年旧暦2月13日(太陽暦では3月16日月曜日)に生まれ、1931 (昭和6)年11月11日水曜日、満91歳で亡くなりました。大腸狭窄症で、10月14日には、飛鳥山の自邸内において東京帝国大学塩田広重教授執刀のもとに腹部切開手術を受けています。

Q2渋沢栄一はどこで生まれ、どのような家庭に育ちましたか。

A2

武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくに はんざわぐん ちあらいじまむら)、現在の埼玉県深谷市血洗島の出身です。栄一が生まれたのは、「渋沢・中ノ家」で、血洗島村を開いた一家といわれる、村の中にあって由緒ある渋沢家の宗家にあたります。農作の他、養蚕や若干の金融業などの諸業を営んでいましたが、栄一の父親の代には染料のもととなる藍玉の製造・販売を本格的に手掛け、村で1、2を競う富農の家でした。学問好きで、厳格な父親、とても慈悲深い母親のもとで栄一は育っています。

Q3"藍玉"とはどんなものですか。

A3

タデ科植物の藍からつくる染料。藍作農家で作る葉藍を加工業者が買い集め、3ヶ月程かけて発酵させて搗(つ)き固めたものを藍玉と呼びます。渋沢栄一が生まれ育った地域は、武州藍染の原料供給地でした。

Q4青淵の由来と意味を教えてください。

A4

栄一自身が、1929 (昭和4)年12月24日に、こう語っています。「青淵と云ふ私の号は、私が十八歳頃、藍香先生 [編者注:渋沢栄一の従兄・学問の師の尾高惇忠] から附けて貰った。当時私の家の下に淵があって、その関係から私の家を淵上小屋と名附けていた。それから青淵と云ふ号が出来たのである」。なお、栄一がこのように語った当時、すでに「淵」は無く、淵の跡に清水が沸いていたそうです。

Q5渋沢栄一の最期の言葉は何でしょうか。

A5

『渋沢栄一伝記資料』によると、病状急変後小康状態を取り戻した1931 (昭和6)年11月8日、見舞いに来た財界有力者に対し、「私は帝国民としてまた東京市民として、誠意御奉公をして参りました、そして尚ほ百歳までも奉公したいと思ひますが、この度の病気では最早再起は困難かと思はれます、しかしこれは病気が悪いので私が悪いのではありません、たとへ私は他界しても、皆さんの御事業と御健康とを御祈し守護致します。どうか亡き後とも他人行儀にして下さいますな」と語ったそうです。

Q6墓所はどこにありますか。

A6

都営谷中霊園の乙11号1側渋沢家墓所にあります。

Q7「夢七訓」は栄一の言葉ですか。

A7

史料館へのお問い合わせが多いご質問ですが、残念ながら、現在のところ原典を確認できていません。渋沢栄一が語ったものなのかどうか、今一度、確認する必要があるでしょう。

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