渡米実業団の由来

 渡米実業団の公式報告書である『渡米実業団誌』(東京 : 巌谷季雄, 1910.10)の巻頭に前書きとして掲載されている渋沢栄一述「渡米実業団の由来」の全文です。

 ここでは旧字を新字などにあらため、読みやすくしています。

渡米実業団の由来  男爵 渋沢栄一述

諺に蒔かぬ種は生へぬと云ふ事がありますが、蓋し結果には必ず原因があるものと云ふことを意味したのであらうと思ふ。此渡米実業団の成立したのも、決して偶然に出来たものではなく、遠く其由来を詮索すると、随分久しい以前から、其原因が胚胎されて居つたものと云ひ得らるゝだらうと思ひます。

元来日本の開国は、自然の機運もあつたのてあらうけれども、五十六年前の米国の大統領が東洋に於ける鎖国的の国柄を、是非世の中に引出したいと云ふことから「コンモドル、ペリー」と云ふ人を日本に寄越したのは、決して一朝一夕の考へではなかつた様である。歴史に拠ると、其前の大統領、若くは其前々の大統領から、頻りに其計画があつて、遂に「ミラルド、フヰルモーア」と云ふ大統領の時に、始めて決行せられた様に思はれます。寛政年間にも漂流者を送つて長崎に来たことがある、併し其時には逐ひ返されて仕舞つた様に書いてある。夫から弘化年度にも軍艦を送つたことがある。夫は長崎ではなくて、東京湾だと亜米利加の人は云つて居るけれども、能く調べて見なければ何れの地方か分らぬが、今度の旅行中ボストン市に於て、「ルース」と云ふ老将軍が、私の旅宿に来て、自分は其時軍艦に乗つて日本へ来た一人であると話された。其軍艦は帆前船であつたと云うて、其絵図までも示され種々懐旧談を聴かされて大に面白かつた。其時にも国禁を主張して、薪水と食糧とを与へられた丈けで、其儘帰つたに過ぎなかつたのです。斯くの如く屡々開国の事を誘導したが、嘉永六年「コンモドル、ペリー」の来る時には、尋常一様では行かぬと見て、軍艦四隻舳艫相銜んで遣つて来た。其時は徳川幕府の末路であつたからして、政治上の紀綱も弛んで居るし、総ての役人が怯弱であつたからして、只だ大に驚て成る可く事なかれ主義により、真正なる開国意見もなく、勿論鎖港も出来ず、止を得ず持つて来た国書を受取つて、一時のがれに、又来年来た時、挨拶しやうと云ふことであつた。夫れが同六年の夏のことである。次で翌年一月再び来られて、遂に修交条約を結ぶと云ふことに至つたのだから、当時の日本の修交は双方が同意で締結したのでは無くして、露骨に言へば、彼の威力に畏れ、若し拒絶したならば、如何なる禍害が起るか知れぬと云ふ処から、先づ内に兵備を整へるまで、海外に事を起さぬ様にと云ふ、優柔策に出た様に思はれる。併し引続いて貿易上の条約を締結するに就ては、其時の亜米利加の公使たる「タウンセンド、ハリス」と云ふ人は、実に忠実懇篤なる人で、自分の本分をも充分竭くして、さうして日本の為めに親切なる愛情を以て、此貿易上の規約を、日本の為に教授的に逐条評議をして呉れたのである。已に亜米利加と通商条約を結ぶと、引続いて露英仏独等の国も続々と来られて、遂に一国と結べば、又他の一国とも結ばねばならぬ様になつたのである。さりながら亜米利加との条約が第一番に出来てあつたから日本が大に好都合を得たのである。畢竟亜米利加との通商条約が善かつた為めであると云ふ事は、其時の歴史に就いて見ても明瞭である。其後明治維新の変革があつて、百般の制度が改良され、外交のことも今度は完全なる開国主義となつて、漸次海外の長所を採り、我が制度の短を補ふと云ふ様になつたから、茲に始めて外国との交際が、相互的に開かるゝ事になつて来た。

其の後明治四年に成つてから、日本政府が岩倉公以下大勢の人々を派出して、海外各国との条約に付いて評議討論した時も、矢張亜米利加を第一番にした。先づ亜米利加に到りて、種々協議の末に、当初の方針に修正を加へたと云ふこともあつた様に聞及んで居る。爾来両国間に公使を駐在せしめ、修交に貿易に、年一年に進んで来つたが、多くは政治上の関係丈で、民間の意志を通ずる等の事は、未だ其頃には看ることが出来なかつた。其後明治十二年に「ゼネラル、グラント」と云ふ人が、大統領を罷めて世界漫遊を企て、第一に日本へ来られた。其時に東京市民は、従来亜米利加を頗る徳として居り、殊に「グラント」と云ふ人が、文勲にも武功にも、世界に於て赫々たる名誉ある人であり、且其性質も至て真摯朴訥で、思ふたことは言ふ、言つたことは必ず行ふと云ふ気風に聴いて居つたから、其高風を慕うて、大に之を歓迎しやうと云ふ計画を起した。其時に斯く云ふ私も、歓迎委員の一人で、特に委員長に推されて万事斡旋した事である。先づ新橋に着すると、其処に委員中の数名が打揃つて迎へる。引続いて政府の工部大学校を拝借して夜会を開き、新富座に於て特に同氏の為めに演劇を仕組んで、観劇の宴を開き、又個人の宴会としては、其時私の飛鳥山の別荘へ、同氏を始めとして、随行の米国人其他三四十人の人を招いて、撃剣や柔術等を観せて、昼餐を饗応しました。更に大なる計画は、上野公園に大会を開いて、日本の古武術を見せると云ふので、幌曳とか流鏑馬とか云ふ、種々の芸術を演ずることにして、殊に当日は是非 陛下の御親臨を請うて、共に御覧ある様にと云ふことを、歓迎会の有志者から御願して御許可を蒙つて居つた処が[、]其頃に東京市内に少しく流行病があつた為めに、或は出御為被在まいかと云ふことを、開会の間際になつて宮内省より内沙汰があつたので委員の一同は大に憂慮して、百方奔走尽力し、恐れ多いことながら、強願的に懇請して、遂に御許可になつた。酷暑の時分であつたが 陛下は勉めて出御あらせられ、為めに当日は、実に満都湧き立つばかりの大歓迎会が開かれた。其時「グラント」氏に対しては、余興の前に特に会員が相集つて、歓迎文を私が朗読したことを覚へて居る。

是等は一時只だ貴賓を迎へるに過ぎぬのであるから、申さば夫れ限りの事ではあるが、聞く処によれば、同氏は日本の各種の接待にはその意を得られた様子で、特に畏れ多くも 陛下が屡々御会見になつて、種々政治上の事の御談話もあつたし、頗る懇親の情を以て、御別れを告げたと云ふことである。彼是以て日本に於ける旅行の時日を、最も愉快に紀念されて、サンフランシスコに帰られた時に、同地の人々から催された歓迎会に於て、日本に滞留中深く感ぜられた事柄を、詳しく述べられたと云ふことを、今度彼の地に於て聞いたのである。爾来漸次日本の商工業者夫れ自身からも、海外に向つて大に交情を通じ、意志を交換することを努めねばならぬと云つて、商業会議所等の力に依り、追々努めつゝあつた。但し日米の貿易を拡張し、両国の通商を進めることは勿論であるが、単に夫れ計りでなく、元来風俗人情を異にし、文字を異にし、宗教を異にするから、兎角齟齬の生し易き恐れがある故に、勉めて相互の意志の疏通を図るは、単に政治家にのみ頼んで置かれぬと云ふ事を知つて来たのである。夫れで明治三十五年の春、私は欧米漫遊を企てた。其時は東京商業会議所の会頭の位置に居つたが、恰も当時全国各地の商業会議所が集つて、東京に聯合会を開かれて居つた。其聯合会に於て、一の建議が出て、従来日本の商工業者は、欧米の同業者に対して、意志を通じて商売の繁栄を計るのみならず、両国の間に誤解のない様にすると云ふことを経営して居るが、未だ完全なる方法もなく、又別に何等の規則立つた仕組が成立つて居る訳でないから、思ふ如くには徹底せぬ虞れがある。幸に東京商業会議所会頭の渋沢が、欧米に行かれるのは好い機会である。聯合会の決議を以て、日本の商工業者の意志を充分に疏通することを、特に依頼したら宜からう。即ち意志疏通を委託すると云ふことを決議され、私は其の覚書を携へて、漫遊の傍ら、欧米各地に其事を通ずることに勉めたが、其時の旅行も、第一が亜米利加であつて、三十五年の五月十五日に東京を出立して、三十一日にサンフランシスコに着し、同市及シカゴ、ニューヨルク、ボストン、フヰラデルヒヤ等の商業会議所、若くは商業団体に対して、日本に於ける聯合会の決議の趣意を通じた。さうして相当の力ある人に面会して、其理由を説明した。ニューヨークに於ては、特に同地の商業会議所が、私の為めに歓迎会を開いて、此方の決議文を充分了諾したと云ふことを、其時の副会頭から答へられた事がある、又明治三十八年と四十年とに、米国現大統領タフト氏の日本に来遊せられたときも、東京の商工業者は大に之を歓迎した。是等が日米間の商工業者の意志を通ずるに付ての、沿革と云うても宜からうと思ふが、適切なる近因は、昨年起つて来たのである。昨年の春、日本に於ける東京及其他各地の商業会議所に於て、米国太平洋沿岸の商業会議所の人を招いて、日本の商工業の実状を視せ、又日本の商工業者の意志を示し、一方には饗応をして懇親を厚うし、一方には各種の事物を叮嚀に披瀝して其観察に資したならば、従来の情意を更に進めることが出来るであらうと云ふことであつた。其頃私は辞退して、商業会議所の議員ではなかつたからして、其の招待状を発することには関係せなんだが、前陳の事が決せられて、愈々亜米利加の客が来ると云ふことになつたに就て、東京商業会議所の中野会頭から相談を受け、米国の賓客が来たならば、共に力を添へて、相当なる接待を致す様にと云ふ依頼があつた。前に云つた通り、三十五年の事は勿論、折に触れ事に当つて、屡々米国より渡来の人を歓迎しつゝあつたから、此東京商業会議所会頭の依頼は、自分も喜んで同意して、其処で昨年其人々が来られた時にも手狭なる王子の拙宅に招いて、相応の款待は致した積りであつたが、東京に於けることは、左迄ではなかつたかも知らぬが、各地の歓迎に就いて誠に宜しきを得、中にも学校のある場所では、大勢の生徒が熱心に歓迎したのは、別して来客の感情を惹いて、大層心地快く悦んで帰られた様であつた。恰も此時、太平洋艦隊が日本へ訪問することになつたので、其歓迎会も東京に開かれ、他の各地にても開かれた。而して何れの地方でも随分手を竭くして、美事なる歓迎を致されたが、相俟つて米国官民の情意を深く感ぜしめたと見えて、太平洋沿岸からの来賓は、別して喜んで帰国の途に就かれたのである。其頃からして、来年は日本の実業家を招いて米国の各地を巡遊して貰ひたいと云ふことが予期してあつた様に思はれた。さう云ふ計画で私が来遊人に告別の為めに、帝国ホテルに訪問した時、或る人から洩されたことすらあつたが、果して太平洋沿岸の商業会議所の評議が一決して、当年の秋を期して、日本の実業家を招くと云ふことになり、領事の手を経て、我外務省に通ぜられた。夫れから遂に渡米実業家に、相当の人を定め様と云ふ評議が起つたのである。

元来私は高齢でもあり、且つ身体も左まで健全だと云ふことも申兼るし、殊に言語は通ぜず、又船にも弱い。左様に種々なる困難の廉が多いに因て、各方面から、御勧告を受けたれども、どうも其器にあらずと考へて、切に御辞退を申して居つたのである。処が段々日が迫つて来るし、其人が定らぬと遂に手筈も聞違ひ、折角招いて呉れる米国の人々をして、大に失望させる様なことがあつて、是迄段々進んで来た情緒に、蹉跌を惹き起す様なことになつては、甚だ残念千万である。誰れか立派な人々を見出したいと、自分も多少憂慮して居る際に、東京の実業家中で私と交情の親密なる人々が、二三十名相会したことがあつて、(私は其日は出席はせなんだが)、其会に於て、渡米実業家の品定めをしやうと云ふ評議が起つて、遂に私を是非其一人に加へると云ふことに決して、其連中から三名の委員が出来て、私に対して是非共同意して呉れと云ふことを申し出られた。夫れは六月十五[*]日のことであつて、其委員は千家男爵、高橋男爵、中野東京商業会議所会頭であつた。既に前以て其筋から再三誘導を蒙り、其他朋友からも勧められて居つた上に、切なる委員の勧告であるから、最早諾否を確答せんければならぬ時機に立至つた。其処で自問自答、種々考へて見たが、其日に打寄つた人々は、何れも実業家中錚々たる人だから、自ら揮つて行つて呉れたら宜からうと思つたが、何分種々なる事情があつて行けないと云ふ事から、遂に私を推すと云ふことになつたのであるとのことで、斯様に各自辞退して居つては仕方がないから、宜しい、屍を馬革に包むと云ふ決心にて引受けた。引続いて屡々会合が開かれて、東京は勿論、大阪、京都、横浜、神戸、名古屋等の実業家専門家と、遂に一行の人数が成立つたのである。扠其人が定つて見ると、亜米利加からの申越されたには、教育家も学者も企望の由であるが、是等の人々は民間では得難いと云ふ処から、政府に向つて其派出を御願した。さうして医師もなければならぬと云ふ処から、是も政府から人選して貰ふと云ふことになつて、茲に始めて一行の人数が定つて、渡米実業団と云ふものが組織されて、此旅行を始める場合に至つたのである。即ち前に申す通り、渡米実業団の成立は明治四十二年六月頃で在ると云うて宜しいが、其原因を論ずれば、決して明治四十二年六月に起つたのでなくして、遠く数年若しくは十数年以前から、原因して居つたものと云ひ得らるゝのである。即ち蒔いた種が生へたのであると云ふことが出来る、偖斯様に種が生へたが、是から此種に花が咲き、実が結ばれるのは現在の実業団員の力計りでは、到底充分には行届かぬと思ふ。勉めて之を培養して、美い花を咲かせ、良い果実を結ばせると云ふことは、日本実業家の責任と云うても過言ではなからう。

先づ渡米実業団の由来に就て、私の記憶する処は、大概前陳の通りである。但し此他にも種々なる原因があらうが、人は只我方面に詳かなるものであるから、自然自己の関係のみに就いて言ふ嫌は免かれぬことである、故に此所には只私の知悉して居る事を遠慮なく申述べたに過ぎぬ。


*実際の日付は6月21日。

出典:『渡米実業団誌』 (東京 : 巌谷季雄, 1910.10)p.1-13掲載

更新日 2009年8月14日