わがまちの渋沢栄一

10 東北地方の発展のために ~山形県・山形市~

『青淵』No.910 2025年1月号|情報資源センター

 1917(大正6)年10月14日夕刻、渋沢栄一は東北各県への旅行の道中、山形県山形市を訪れました。この旅行は、栄一自らが会頭を務めた東北振興会の視察と講演を目的としたもので、山形のほか福島、米沢、秋田、盛岡、仙台などを巡回しています。山形駅では添田敬一郎山形県知事をはじめ、プラットフォームを埋めんばかりの人びとに出迎えられ、宿泊先でも休む間もなく訪問客がやってきたといいます。地元の新聞各紙も栄一の動静を連日詳細に報じており、その注目度の高さがうかがえます。
 山形市には、栄一が訪れた当時の様子がわかる場所がいくつか残されています。今回は同市で栄一が過ごした2日間の記録を辿りつつ、現在それらの場所がどうなっているのかを現地で取材した内容を交えてお伝えします。

旅館「後藤又兵衛」

山形銀行本店
山形銀行本店

 山形市に到着した栄一は、駅から人力車に乗り、旅館「後藤又兵衛」に向かいました。後藤又兵衛は江戸時代から続く歴史のある旅館で、陸奥宗光、山県有朋、原敬、森鴎外ら政治家や財界人が数多く来泊しています。同旅館には滞在した要人の書画が飾られていたといい、栄一も「温故而知新」という書を書き残したことがわかっています。残念ながら、同旅館は廃業しており、今となっては当時の様子をうかがうことも栄一の書を見ることもかないません。
 現在、旅館の跡地には本店の建替え工事のため移転してきた山形銀行のビルが建っています。山形銀行は栄一と直接の関係はありませんが、後藤又兵衛所有のものとは別の栄一の扁額を所有しています。この扁額には「利用厚生 辛亥八月 [1911(明治44)年8月]」と書かれており、栄一が山形を訪れるより以前のものです。取材でお話を伺った同行の保科秘書室長によると、扁額はもともと秋田県にある同行本荘支店に保管されていたもので、お客様のために支店長がロビーに飾ったことがきっかけで存在が確認されたそうです。本荘支店は、歴史を遡ると本荘銀行という山形銀行とは別の銀行をルーツに持っており、伝統があり今も大事にしている支店とのこと。本荘銀行と栄一とのかかわりは確認できませんが、『渋沢栄一伝記資料』には同行の名前が出てくる箇所があります。(注1)

料亭「四山楼(しさんろう)」

四山楼大広間
四山楼大広間

 夜になり、栄一は招待された官民合同の歓迎会に出席しました。添田知事、小鷹鋭健山形市長らを発起人としたこの歓迎会は、料亭「四山楼」の大広間を会場に来会者百数十人を集めました。添田知事の歓迎の辞に対し、栄一は答辞として、かつて東北各地に第一国立銀行の支店、出張所を設け、東北の発展に資しようとしたことを述べ、また東北振興会を設立して同地振興のために活動を始めていることを明らかにしました。また栄一は、現地の人びとと会うことで東京にいるだけでは知ることのできない新たな知見を得るべく視察旅行に出たとも述べています。この時すでに栄一は喜寿を過ぎ実業界も引退していましたが、まだまだその行動力は衰えを見せていなかったようです。
 歓迎会場となった四山楼は、現在も経営を続けています。ご案内いただいた同料亭の柿本女将によると、大広間も調度品も栄一が訪れた当時から変わっていないそうで、つい先ほどまで栄一の歓迎会が行われていたような感覚になりました。大広間の後は蔵座敷も見学しました。1891(明治24)年建築の土蔵造り二階建て切妻造りの建物で、こちらも細部までこだわった内装と装飾の素晴らしいお部屋でした。なお「四山楼」という名称は、同料亭に宿泊した伊藤博文が、階上から眺めた四方の山々の美しさに心うたれ名付けたそうです。伊藤博文と言えば栄一ともかかわりの深い人物。何か引き寄せられるものを感じます。
 同料亭では、山形では一般的なアケビの皮を使った肉詰め、ご当地のお漬物「おみ漬」、そして牛肉の入ったしょうゆ味の芋煮など、山形の美味しい郷土料理をいただくことができます。栄一が歓迎会で口にした食事の内容は記録が残っておらずわかりませんが、彼もまた山形の郷土料理に舌鼓を打っていたかもしれません。

県立物産陳列場

山形商工会議所会館
山形商工会議所会館

 翌10月15日、栄一は山形市内の講演会場に向かう途中、県立物産陳列場を訪れました。場長らによる県内産業状況の説明を受けたのち、展示されている県内生産品を視察、また来形記念として欅製の机1台と漆器類等を購入しています。同場は、栄一訪問の半年前、1917(大正6)年3月に開場。県内物産品の展示販売、産業振興の場所として利用されました。開場にあたり栄一は祝辞を送っています。
 現在、物産陳列場の跡地には山形商工会議所会館があります。『山形商工会議所史』によると、同地に商工会議所を移す契約時には「一階は物産陳列所」とすることになっており、物産陳列場の役割を継承していたようです。館内には、最近まで物産品の展示コーナーがあったとのことでした。
 なお、『山形日報』の記事によると栄一は物産陳列所の前に「自治講習所」に立ち寄ったとあります。同所は他の訪問先とは少し離れた場所にあり、『渋沢栄一伝記資料』や『竜門雑誌』また他の新聞記事ではそのことを確認できません。スケジュールから考えると訪問が難しいようにも感じられますが、事前の予定では行くことになっていたのかもしれません。現在、自治講習所のあった場所は山形県立山形工業高校となっていて、敷地の脇には跡地を示す石碑が建っています。

県庁舎および県会議事堂

県会議事堂議場ホール
県会議事堂議場ホール

 山形市での栄一の講演会場は、訪問の前年1916(大正5)年6月に新築された県会議事堂の議場ホールでした。県立物産陳列場を後にした栄一は、まず隣接する県庁舎の休憩室にて休んだのち、両建物をつなぐ渡り廊下を通って県会議事堂へと向かいました。会場には聴講者約800人が集い、栄一登壇の折には雷のような拍手で迎えたといいます。栄一は自身の体験を交えつつ、「実業界に立てより私は言行一致を信条として生産殖利事業は仁義道徳に依て行はるるものでこれに依らなければ真に維持していけるものではない」「実業は世道、人心と離るべかざることと信じ経済界は仁義道徳を以てやつていけるものと信じます」と「元気旺盛、特に終に臨みて精気溢るゝ許り」に約1時間半の講演を行いました。(注2)
 講演の舞台となった県庁舎および県会議事堂は現在、山形県郷土館「文翔館(ぶんしょうかん)」となって一般に公開され、郷土の歴史や暮らしを伝える展示が設けられているほか、演奏会や映画のロケ地など文化活動の場として広く利用されています。ご案内いただいたボランティアガイドの方のお話によると、県庁舎で栄一が休んだ休憩室は3階の貴賓室ではないかとのこと。寄木細工があしらわれた床や建設当時の姿に復原された漆喰天井、シャンデリア、絨毯などが印象的でした。講演の際、栄一は貴賓室から県会議事堂へつながる渡り廊下を通って会場に入ったようです。議事堂ホールでは栄一も登壇した演台も見学。当時どのような盛況ぶりであったのか想像が膨らみました。また見学の折に建物に使用されている構造レンガが、栄一が取締役会長となった日本煉瓦製造株式会社のものであることが判明。ここにも栄一との接点があったことに驚きました。

山形から秋田へ

 講演後、栄一は県庁舎の食堂で行われた添田知事主催の午餐会に参加。そののち山形駅より次の視察先である秋田へと向かいました。秋田へ向かう車窓からの景色について、次のように記録されています。

 山形を出でゝより汽車は暫し最上の大平原を進みしがいつしか丘陵の間に分け入り、漆の紅葉美しく、翡翠色濃き松山を彩れる辺りを過ぎて新庄につき、左手遥かに眺むれば、鳥海山頂白雪色鮮なりき(注3)

 栄一が山形に滞在した日は近隣の山々に初雪が降るほど寒く、新聞には10月14日、15日の気温が12.8度であったと記録されています。奇しくも今回の現地取材も10月の中旬に行いましたが、当日は最高気温が25度を超える夏日となり、長袖ではうっすら汗ばむ陽気でした。栄一が見た風情ある彩り豊かな秋の景色もいつか見てみたいものです。
(掲載写真はいずれも2024年10月18、19日撮影。)

【謝辞】
 本記事執筆にあたり竜門社山形支部の丹支部長、大橋様にご尽力をいただきました。またこころよく取材に応じてくださいました皆様に厚く御礼申し上げます。


【注】
1.『渋沢栄一伝記資料』第5巻361頁。
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK050079k_text
2.『竜門雑誌』第354号、103頁、106頁。
3.同、106頁。

【主な参考文献】
『渋沢栄一伝記資料』第5巻、第56巻
『竜門雑誌』第354号、第367号
『山形新聞』第11664号ほか
『山形日報』第8504号ほか
『山形商工会議所史』下巻(山形商工会議所、1974年)
『山形市史』年表索引編(山形市、1982年)
『太陽』21巻4号(平凡社、1983年)


【本文未掲載の写真はこちらからご覧いただけます】
・山形県山形市_2024.10.18-19(Googleフォト)
https://photos.app.goo.gl/8y8cchAbC1NV7QhA6

【参考リンク】
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
・第56巻|東北振興会
大正6年10月6日(1917年) 是日栄一、東北地方巡回ノ途ニ就キ、十八日間ニ亘リ、各方面ノ視察ヲナスト共ニ、各地ニ於テ、東北振興ニ関シ演説ヲナス。
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK560059k_text

マップ上に歩いたおおよそのルートをを示しています。(徒歩約2,000歩)

※本記事は『青淵』2025年1月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。


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