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『青淵』No.907 2024年10月号|情報資源センター
梅雨入り前にもかかわらず、すでに夏のような強い日差しが照り付ける6月中旬、都営三田線御成門駅から都営大江戸線赤羽橋駅周辺まで歩きました。この付近は北里と栄一のかかわりを知るにはおすすめのまち歩きコースです。
御成門駅の出口からすぐ近くの場所に「伝染病研究所発祥の地」碑があります(写真右)。ここは北里柴三郎が福沢諭吉らの支援を受けて開設した私立伝染病研究所(注1)があった場所です。北里は破傷風の血清療法確立やペスト菌の発見など世界的な功績を残した近代日本医学の父として知られ、門下生には旧千円札の肖像、医学者の野口英世らがいます。北里は門下生とともに同研究所で伝染病予防と細菌学の研究を行いました。
後年、国の所管となっていた伝染病研究所は、所長の北里に何の相談もなく、時の政府により文部省に移管、東京帝国大学(現・東京大学)の附属機関となることが決められてしまいます。北里は同所を後にし、新たに北里研究所(現・北里大学)を創立しました。栄一自身は伝染病研究所への直接の関与はなかったものの、この移管問題については新聞の取材に対し、「今般の措置は単に北里[、支援者の]森村両氏に諮る所なきのみならず過去の歴史を蹂躙し周囲の事情を無視し其転管を敢てしたるが如きは如何に政府の権限行為なりとは云へ亦或意味に於ける官権乱用なり(注2)」と苦言を呈しました。
さて、「伝染病研究所発祥の地」から南に向かうと、増上寺と芝公園が見えてきます。増上寺は栄一の従兄、渋沢喜作の葬儀も行われたゆかりのあるお寺です。 その増上寺の脇の道を抜けると眼前には東京タワーの大きな姿が(写真左)。去る7月3日には新1万円札発行記念として、栄一ゆかりの藍玉をモチーフにした藍色にライトアップされていたのが記憶に新しいです。この東京タワーの場所には戦前まで「紅葉館(注3)」という会員制の高級料亭がありました。政治家や実業家の社交の場、海外からの賓客をもてなす場として活用され、栄一もたびたび訪れています。北里も伝染病研究所が近所という事もあり、同僚や部下たちと行事や宴席の場として使っていたそうです。
東京タワーを右手に、芝公園の一角にある人工渓谷「もみじ谷」を下ると赤羽橋駅に到着です。さらに駅前の交差点を渡った先には、東京都済生会中央病院があります(写真右)。栄一は同院を運営する恩賜財団済生会の創立に際し、寄付金募集の世話人として尽力し、創立後には顧問と評議員を務めました。北里もまた同会の評議員、医務主管となったほか、この中央病院(当時は恩賜財団済生会芝病院)の初代院長に就任しています。このように北里と栄一は医学の発展のため様々な事業で協力していました。
今回歩いたコースはここまでですが、済生会中央病院を南に下ると慶應義塾大学、さらに白金方面に進むと北里大学、そして伝染病研究所の後身である東京大学医科学研究所があります。各施設にはそれぞれの歴史を知ることができる博物館も設置されているので、伝染病研究所の創立から現在に至るまでの変遷の道を巡ってみるのもいいですね。
(掲載写真はすべて2024年6月19日撮影)
【注】
1.1892(明治25)年開設。1899(明治32)年、国に寄付され内務省の管轄になる。
2.『竜門雑誌』第318号、17頁。[ ]内は補記。
3.1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失。跡地を日本電波塔株式会社(現・株式会社TOKYO TOWER)が取得。栄一の孫、渋沢敬三は同社発起人、取締役の1人。
【主な参考文献】
『渋沢栄一伝記資料』第31巻、第57巻、別巻第2
『竜門雑誌』第318号、第595号
『日本医事新報』1781号、3511号
『東京タワーの20年』(日本電波塔、1977年)
【参考リンク】
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
・第31巻|恩賜財団済生会
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?31#a31010403
・第57巻|親族
大正元年8月30日(1912年) 是日、栄一ノ従兄渋沢喜作逝ク。九月四日栄一、芝増上寺ニ於ケル葬儀ニ列シテ、追悼ノ辞ヲ述ブ。
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK570031k_text
渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図
・保健・医療A〔社会事業〕
https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/histories/view/390
マップ上に歩いたおおよそのルートをを示しています。
※本記事は『青淵』2024年10月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。