わがまちの渋沢栄一

8 聖徳太子報恩碑 ~埼玉県・深谷市~

『青淵』No.904 2024年7月号|情報資源センター

 2024年7月、1万円札の肖像が渋沢栄一に変わります。紙幣の中の栄一が皆様のお目にかかるのももう間もなくと思います。今回は1万円札の大先輩、聖徳太子と栄一のゆかりについて紹介します。


 例年より遅い桜の季節、埼玉県深谷市のJR岡部駅に降り立ちました。久しぶりの現地取材のはじまりです。今回の目的地は、栄一が揮毫したといわれる「聖徳太子報恩碑」。『渋沢栄一伝記資料』に同じ名称の碑について収録されていますが(注1)、それとは別の碑が深谷にあるという情報を得て、どのような碑であるのか調べることにしました。同碑については十分な情報がなく、いつ誰が、栄一に揮毫を依頼し、その場所に建立したのか、そもそも今どのような状態であるのかも不明でした。実物を確かめれば何か新しい発見があるかもしれない、そんな期待を胸に、いざ碑が立つという史跡「岡部六弥太忠澄の墓(注2)」を目指します。

 岡部駅から歩きに歩いて30分、道中は渋沢栄一の幟の立つお店や桜が美しい小学校を抜けていきます。たどり着いた史跡の周辺は、住宅地が切れてその先に畑が広がる場所でした。史跡公園の入り口から目に飛び込んできたのは明らかに人の手で植えられたであろう木々と円を描いて並ぶ複数の石柱。その中心に目的の聖徳太子報恩碑が、すっと立っていました。正面には「聖徳太子報恩碑」、薄くなっていますが「正三位勲一等子爵澁澤栄一謹書」 と刻まれているのが確認できます。背面の碑文には、若守義孝の筆により、「国に尽くした聖徳太子の遺徳に感謝するため岡部村職工組合員が有志諸賢の援助を得て建立した」と書かれていました。残念ながら栄一についての記述はありません。建立は「昭和二年十一月二十二日」とあり、それから100年近く経ってなお碑の状態は良好で、刻まれた文字をはっきり読むことができます。どなたか手入れをしてくれているのでしょうか。

 碑は周りの石柱などから見ても立派なモニュメントですが、現在に至るまで、その存在はほとんど知られていません。碑を見た同日、深谷市の図書館にも伺い市史や郷土資料など関連情報が載っていそうな文献を当たってみましたが、碑に関する記述を見つけることはできませんでした。岡部六弥太忠澄の墓については多くの記録が残っているのですが、その隣にある碑に関してはどこにもふれられていないというのがなんとも不思議です。栄一と若守氏、岡部村職工組合との関係などまだわからない点もあるので引き続き調べていきたいと思います。

【追記】後日、岡部村職工組合は地元の建築・大工の方々の集まりであること、聖徳太子報恩碑は毎年1月17日に「太子講」として祈祷されていたと情報のご提供がありました。「太子講」は2008(平成20)年頃までは続いていたそうです。

【注】
1.『伝記資料』収録の碑は、茨城県つくば市所在。同地の有力者、土田右馬太郎(つちだ・うまたろう)が栄一に揮毫を依頼したことが収録資料よりわかっている。建立予定は昭和2年9月で深谷の碑とほぼ同時期。
2.岡部六弥太忠澄(おかべ・ろくやた・ただすみ)は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士。同史跡には忠澄一族の墓所があり、1924(大正13)年に埼玉県指定史跡となる。なぜ敷地内に聖徳太子報恩碑が建立されたのか、関係性は不明。

聖徳太子報恩碑(全景と碑正面)

聖徳太子報恩碑全景

聖徳太子報恩碑正面

木々に覆われ、遠くからでは碑を確認する事はできない。周囲の石柱には関係者と思われる人名が刻まれている。側面に丸い窪みがあり以前は柵状につながっていたか。正面の少し背の高い対の柱には「昭和御大典記念」と記されている。また正面右には寄付連名碑が建てられ、栄一の甥、渋沢治太郎の名前もある。
 報恩碑は堆く積まれた土台の上に立つ。正面が渋沢栄一書。「碑」の文字に角がない俗字が用いられているのが特徴的。
(写真は2024年4月6日撮影)



【主な参考文献】
『渋沢栄一伝記資料』第49巻、別巻第2

マップ上のピンは聖徳太子報恩碑付近を示しています。

※本記事は『青淵』2024年7月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。


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