わがまちの渋沢栄一

7 津田塾大学 ~東京都・千代田区~

『青淵』No.901 2024年4月号|情報資源センター

 2024年7月、新紙幣発行に伴い1万円札の肖像が渋沢栄一に変わります。これを記念して2024年の「わがまちの渋沢栄一」では、お札の肖像に関する人物と栄一のかかわりについてご紹介します。


 新5千円札の顔になる津田梅子(つだ・うめこ、1864-1929)は、日本人初の女子留学生としてアメリカに渡り、帰国後は日本における女子教育、女性の地位向上に貢献した人物として知られています。1900(明治33)年、梅子は女子高等教育における先駆的機関である女子英学塾(現・津田塾大学)を創立します。最初の校舎は東京市麹町区一番町15番地(現・千代田区三番町、大妻中学高等学校付近)の一軒家でした。その後、学生が増え手狭になると同区元園町1丁目41番地の醍醐侯爵旧宅(現・半蔵門駅付近)に移転、さらに1902(明治35)年には同区五番町16番地(現・千代田区一番町、駐日英国大使館の裏手)にあった静修女学校の土地建物を購入し新校地としました(注1)。ちなみに、静修女学校を運営していた小鹿島(石井)筆子は、梅子の生涯の盟友と言われる人物です。筆子はのちに滝乃川学園設立者、石井亮一と結婚しました。同学園を支援していた栄一は、1921(大正10)年に理事長となっています。

 栄一が女子英学塾の支援者であったことは同校史や『渋沢栄一伝記資料』からうかがい知ることができます。1911(明治44)年3月、第9回卒業式を兼ねた創立10周年記念会に大隈重信とともに出席した栄一は、学生に向けて「婦人の教育が社会から注目されてゐる時にこの立派な塾から出た人等が、立派にやって行くと『成程、斯の如く教育の価値は大きいものだ』と言はれるようになる。これを大いにしては社会に国家に裨益する処が多い。十年の歳月はさほど長くはないが此の学校の進歩は急速なものだった(注2)」と祝辞を述べています。

 1923(大正12)年9月1日、関東大震災で同校の校舎が全焼してしまうと、日本だけでなく梅子が留学したアメリカの支援者も大学再建のための活動を行いました。この時、栄一のもとには、日米関係委員会を通じて支援者から復興資金を集め、日米親善の永久の記念として同校に渋沢の名を冠したホールを建設してはどうかという提案があったようです。経済界の不振のため提案は実現しませんでしたが、栄一は個人として2千円を寄付しました。この寄付に対し同校の支援者や関係者から栄一に礼状が送られています。

 なお栄一は、梅子の2度目の留学先であったアメリカ・ペンシルバニア州のブリンマー大学を訪れたことがあります。同大学は女性に男性と同等の高等教育を受けさせ、教師や研究者を育成するという当時の日本の教育と比べると先進的な教育機関でした。『伝記資料』にも「米国第一流の女子大学なり(注3)」と記されています。梅子はここで生物学を学びました。栄一の日記には「ブリンモール女学校ニ抵リ校内ヲ一覧ス、此学校ハ寄附金ヲ以テ成立セシモノニシテ、開校後十四・五年ヲ経過セリト云フ、女生徒四百五十人位ヲ入ルヽ寄宿アリ、講堂・運動場・書籍館、其他水泳場等ノ設備極テ整頓ス、蓋シ此校ハ大学程度ナルヲ以テ十八歳以上ノ生徒ヨリ入校ヲ許可スト云フ(後略)(注4)」と視察の内容が収録されています。アメリカの女子教育の現場を直に見た栄一は、日本の女子教育についてどんな思いを巡らせたのでしょうか。

【注】
1.1931(昭和6)年、現在の東京都小平市校地へ移転。
2.『津田塾六十年史』p.117。
3.『渋沢栄一伝記資料』第25巻p.150。
4.同上、第25巻p.178-179。

ブリンマー大学(Bryn Mawr College)時代の津田梅子

ブリンマー大学(Bryn Mawr College)時代の津田梅子

女子英学塾(津田英学塾)を通じて津田梅子と渋沢栄一に関係はあったものの、『渋沢栄一伝記資料』で2人の直接の交流について記された資料は収録されていない。しかし、小鹿島(石井)筆子のように梅子と栄一の共通の関係者の名前は複数確認することができる。例えば梅子の父で農学者の津田仙は、現在の青山学院や普連土学園の創立にかかわり教育者としても知られるが、栄一は両校の支援者であり、青山学院ではのちに名誉評議員を嘱託されている。また、女子英学塾で教鞭をとり、関東大震災後の同学復興にも大きな役割を果たしたアナ・ハーツホンとは、書簡のやり取りがあったことが『伝記資料』収録資料からわかる。
(画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/より)



【主な参考文献】
『渋沢栄一伝記資料』第25巻、第45巻
『津田英学塾四十年史』(津田英学塾、1941年)
『津田塾六十年史』(津田塾大学、1960年)
『津田塾一〇〇年史』(津田塾大学、2003年)
『石井筆子と近代の群像』(大村市歴史資料館、2021年)
『津田梅子』(東京大学出版会、2022年)


【参考リンク】
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
・第25巻|欧米行
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?25#a22020103
・第45巻|女子英学塾(津田英学塾)
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?45#a31050205

渋沢栄一ダイアリー
・1902年6月13日
https://shibusawa-dlab.github.io/app1/item/DKB10010m-0342
・1911年3月29日
https://shibusawa-dlab.github.io/app1/item/DKB10019m-0077

渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図
・女子教育B〔教育〕
https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/histories/view/601

マップ上のピンは津田塾大学旧校地付近を示しています。

※本記事は『青淵』2024年4月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。


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