研究センターだより

25 「比較倫理思想プロジェクト」について

『青淵』No.744 2011(平成23)年3月号

研究部では、現在進行中の3つの主要プロジェクト(比較倫理思想プロジェクト・1910年代プロジェクト・技術移転プロジェクト)の概要を紹介し、その狙いと主要な論点を紹介するため、2ヵ月に1回財団職員向けの勉強会を開催することにしました。今回は昨年12月の第1回勉強会で取り上げました比較倫理思想プロジェクトについてご紹介します。渋沢栄一の倫理思想(発想)をどのように理解したらよいか。またその現代的意義を考えるための場を提供することが大きな狙いです。

1) プロジェクト開始までの試行錯誤

このプロジェクトを始めたきっかけは、古くて新しい問題を考えている時でした。つまり渋沢栄一は儒教(論語)の精神と西洋の思想をどのように結びつけたのか、という問いです。栄一は第一次世界大戦後に帰一協会を設立、世界の宗教・思想をまとめ、世界平和を模索しようとしました。この試みは実を結びませんでしたが、栄一は世界の宗教・思想の共通点を探求した先に何をしようと考えていたのか。宗教や思想の対立を解消するためか。それとも栄一の合本主義をグローバルな規模で行うための思想的基盤を作りたいと考えたのか、などなど次々と疑問がわいてきました。

そこで、2005年トロントでの渋沢北米セミナーで、「比較倫理学と日本社会」と題するパネル討論を行いました。(1)国家と指導者との関係、(2)西洋の自然法、儒教、仏教におけるリーダーシップ、(3)日本社会における倫理的伝統の多様性などについて、政治思想、倫理哲学の専門家数人が議論した結果、渋沢栄一は儒教(論語)の教えを基にしながらも仏教・神道・西洋思想(平等・人権・民主主義)などから必要なものを取り入れていたのではないかという結論に達しました。

さらに渋沢栄一の社会のために必要なことをなんでも取り入れ、実行に移すという前向きで柔軟な思考、楽観主義の精神や姿勢に学ぶべきことは多い。こうした栄一の進取の精神を踏まえて、東西の政治・倫理思想研究者が集まり、民主主義・法の精神、リーダーシップなどの基本的な理念について考え直すことができるのではないか。例えば民主主義社会でなくても資本主義は成り立つのか。東アジアには、固有の民主主義や人権が存在したのではないか。西洋の民主主義も古代の中国思想の影響を受けているのではないか、などのテーマを探求することにしました。

21世紀に入り、西洋(アングロサクソン)中心のガバナンスの限界、中国(東アジア)の台頭、地球環境問題などグローバルな課題に対応できる新しいグローバル・ガバナンスのあり方を考える必要に迫られています。そこで、東西の政治倫理思想の専門家に集まってもらい、渋沢栄一の思想と行動を考察する地平を拡大しようと考え、2007年から東京、2008年奈良、2009年バンクーバーで準備会議を重ねて、構想を練ってきました。奈良では、東大寺長老や薬師寺管主の講話を聞くことができ、仏教と民主主義・資本主義との関係についても示唆を得ることができました。

2) プロジェクトの概要

いよいよ比較倫理思想プロジェクトとして6回の国際会議を開催することになり、2010年5月1日・2日には、万国博覧会の開幕でにぎわう上海の復旦大学で第1回ワークショップを開催しました。このワークショップでは、熟議民主主義(Deliberative Democracy)をめぐって議論が戦わされました。民主主義では選挙によって多数決を得ることが正当性を担保すると考えられています。特に最近は世論調査による支持率の上下によって、政権や政策の正当性を判断されがちですが、それだけでは、政治家は選挙に勝ち、議会で多数を取ることにばかり力を取られ、政治家本来の活動が阻害されているようです。多数決至上主義、「支持率政治」、大衆迎合主義に陥らないようにするため、熟議民主主義が注目を浴びています。

熟議民主主義の長所・欠点を議論した後、米欧の研究者からの「中国ではワークショップでは熟議民主主義は行われないのではないか」という疑問に対して、中国の研究者からは、「中国でも熟議は古代から行われてきた意思決定の方法のひとつであり、西洋の民主主義だけに熟議があるとはいえない」という反論がありました。確かに日本史を振り返っても、農村では広く村民が意思決定過程に参加する形態が見られました。

それでは東西でどこが違うのかとなると、なかなか結論は出ませんでした。このような政治思想や政策決定過程の議論の方法などについて、中国国内で非公開とはいえ、自由に発言できたことは、海外からの参加者にとっては新鮮な体験でした。

第2回のワークショップは、同年8月18日-20日にシンガポール国立大学で開催しました。「東アジアの法秩序観」について東西比較を行いました。シンガポール国立大学には南アジアからの留学生も多く、北米や東アジアでの会議ではあまり議論されないヒンズー、イスラム文化圏からの意見が出され、多国間の国際会議の面白さと同時に複雑さも体験できました。3日目にはカナダ政府の若手研究者育成基金から助成を受け、ポストドクターフェロー(博士号取得直後の研究者)および博士課程在籍者が数人、研究テーマについて報告し、著名な研究者からコメントをもらうという貴重なセミナーを行うことができました。報告者は最初のうちはかなり緊張していましたが、事前に論文に目を通した各分野の権威から、懇切丁寧な指導を受けたため、感激していました。このセミナーは国際公共財のような役目を果たしたようです。

シンガポールは国を挙げて、国際会議を誘致していますが、実務担当能力は非常に高く、会議の進行は実にスムーズでした。2011年は、ソウル大学・香港大学・慶應義塾大学で、倫理思想の多様性を認めるシヴィル・ソサエティにおけるリーダーシップについて議論する予定です。12月の慶應大学でのワークショップでは、渋沢栄一も福沢諭吉と比較して、議論します。

最終的には2012年のトロントでの第6回ワークショップを経て、その成果を数冊の本として刊行すると同時に学術雑誌に特集として論文を掲載する予定です。

(研究部・木村昌人)


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