史料館だより

61 大政奉還と渋沢栄一

『青淵』No.823 2017(平成29)年10月号

大政奉還と渋沢栄一

 今から150年前の慶応3年秋、渋沢栄一はフランスのパリにいました。この年、15代将軍徳川慶喜の実弟・昭武(あきたけ)が、パリ万国博覧会に派遣され、当時幕臣であった栄一は「御勘定格陸軍附調役」という、会計・庶務のお役目を与えられて随行したのです。
 昭武は将軍名代としてパリ万博に出席し、その後はスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど各国元首の謁見を主目的とした欧州巡歴に出かけました。欧州巡歴を無事に終えた昭武は同年12月より、将来日本の指導者となるべく学業に専念することになります。約3年から5年を予定した、パリでの長期留学です。

政権返上の知らせ

写真1「慶応4年1月2日 パリ到着の御用状」(写)
写真1「慶応4年1月2日 パリ到着の御用状」(写)
 しかし、それも束の間。年が明けた慶応4年1月2日、昭武たちが新春の祝辞を述べ合っている最中に日本から知らせが届き、一同は驚愕します。去る慶応3年10月に将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したというのです。渋沢の公務日記である「巴里御在館日記」には、「夕五時半、御国御用状着、御政態御変革之儀其外品々申来る」(慶応4年正月2日条)と当日の様子が淡々と記されています。
写真1は、昭武のもとに届いた日本からの「御用状」(写)です。冒頭には「辰正月二日夕五時半着 巴里」とあり、国内の目まぐるしい状況報告とともに「政権奉還の上表」が記されています。また栄一は、後年の回想(「雨夜譚」)において、当時の状況を次のように述べています。
 「処で此歳の十月中に日本の京都に於て大君が政権を返上したといふ評判が仏国の新聞に出てから、様々の事柄が続々連載されて来るのを見たが、御旅館内外の日本人は勿論、公子に附添の仏国士官(中略)までが皆虚説であらうといつて、一向に信じませなんだが、独り自分は、兼ねて京都の有様は余程困難の位地に至つて居るから、早晩大政変があるに相違ないといふことは是までにも既に屢々唱へて居つたことであるから、右の新聞紙を信用して他の人々にも其事を論弁しましたが(後略)」

写真2「洋装の渋沢栄一」
写真2「洋装の渋沢栄一」
 栄一は、まるで政変が起きることを予言していたかのようですが、パリに滞在していた徳川昭武一行のうち多くは、将軍・慶喜による「大政奉還」を、すぐには信じることができなかったようです。
 その後、現地の新聞報道、電信、日本から送られた御用状により、王政復古クーデター、鳥羽伏見の戦い、旧幕府軍の敗北、そして慶喜の大坂城脱出と上野寛永寺での謹慎など、凶報が次々に飛び込んできました。昭武たちは進退を話し合いますが、全貌が分からないために今後どのようにすべきかを決定することはできませんでした。

昭武らの帰国

 同年3月16日には、日本から昭武のもとに御用状、そして昭武に宛てた慶喜の書簡が到着しました。これらには「大政奉還」以降の状況や、鳥羽伏見の戦いの顛末、さらには慶喜の「恭順」姿勢などがすべて事実である旨が記され、昭武には留学継続が命じられました。
 しかしながら同年5月には、昭武に帰国を命じる新政府からの御沙汰書、続いて水戸藩庁からも帰国の命令書がパリに到着します。昭武は、留学継続が困難であると判断し、帰国を決断しました。
 栄一は「会計・庶務」として帰国準備に奮闘します。フランス政府と様々な交渉を重ねたほか、家庭教師の解雇手続き、帰国費用の調達に奔走しました。そして借りていたアパートの解約、万国博覧会出品物の売却処分など、様々な債務・事務処理も急いで済ませました。また栄一は、これらと並行しながら荷物の詰め込み、土産物の買い物、乗船の予約手続き、銀行で為替手形の受け取りなど、帰国準備や手続きに忙殺されたのでした。

栄一の渡仏150年

 「大政奉還」など幕末の激動は、昭武や栄一らの人生を大きく変えたことでしょう。本年は「大政奉還」から150年、そして徳川昭武、渋沢栄一が渡仏して150年という節目の年でもあります。
 渋沢史料館では現在、企画展「渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く」[第2期]を開催しています。今春に開催した[第1期]の内容のうち一部展示替えを行い、栄一の欧州体験、さらに日本国内での政変の知らせを受けて、滞仏中の昭武、栄一らが帰国するまでの様子をご紹介しています。企画展は12月10日まで開催しています。皆様のご来館を心よりお待ち申し上げます。

(学芸員 関根 仁)


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