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『青淵』No.796 2015(平成27)年7月号
渋沢史料館では現在、1873年のウィーン万国博覧会と渋沢栄一との関わりを紹介する収蔵品展を開催中です。
大蔵省時代の渋沢栄一 1873年5月1日から11月2日まで、オーストリアのウィーンで万国博覧会が開催されました。これは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世25周年を記念したもので、ウィーンのドナウ河沿いにあるプラーテル公園が会場となりました。
ドイツ、フランス、イギリス、ベルギー、アメリカ、そして日本など23ヵ国が参加し、会期中には約722万人の入場者がありました。会場には、高さ90メートル、直径100メートルの鋳鉄製ドームを中心にして、この左右に16の展示場が建てられました。
展示場では、ロシア、ドイツの軍事関係品やフランスの美術品が来場者の目を惹いたほか、紡績、織物、衣類製造、ガラス加工など蒸気機関による機械、さらには電力による最新の工作機械が注目されました。
ウィーン万国博覧会 出品物募集の広告
墺国博覧会場本館日本列品所入口内部之図
(『墺国博覧会参同記要』より) 誕生して間もない明治新政府は、この万博に公式参加します。参加決定後、太政官正院に博覧会事務局が設置され、出品準備が進められます。事務局総裁・大隈重信、副総裁・佐野常民のもと、1867年のパリ万博を経験している田中芳男、町田久成、山高信離、そして渋沢栄一らが御用掛に任命されました。
事務局は全国から出品物を募るとともに、全国的な物産調査を行ない、さらに各地の職工に新たな製品の製作を依頼しました。収集し、展示した日本の出品物は万博会場で好評を得ました。
渋沢栄一編
「蚕桑集成(小引)」草稿 ウィーン万博参加に際し、栄一は御用掛に任命され、準備に携わることとなりました。栄一はこのとき、大蔵省三等出仕・大蔵少輔事務取扱という立場で、大蔵大輔の井上馨を補佐し、省内の事務を取り仕切っていました。そうしたなかで、ウィーン万博準備における栄一の役割は、養蚕に関する書物を編さんすることでした。養蚕書を万博会場に展示することで、日本の重要な産業である養蚕業を世界に広く紹介することが目的だったと考えられます。
栄一が生まれた血洗島村の渋沢・中ノ家では、家業として藍玉の製造販売、麦作のほか、養蚕を営んでいました。そのため、栄一は幼いころより養蚕業の手伝いをして、桑の栽培、蚕の飼育などに慣れ親しんでいました。さらに官営富岡製糸場が設立される際には、杉浦譲、尾高惇忠らとともに栄一は事務主任として準備に関わっています。
ウィーン万博参加にあたって、なぜ栄一が養蚕書の編さんを担当することになったのか、その経緯は不明ですが、それまでの栄一と養蚕業との関わりが背景にあるのかもしれません。
栄一は養蚕にまつわる多くの資料や書物を取り寄せ、さらに群馬の養蚕地や富岡製糸場へ調査員を派遣して情報を収集します。栄一は休日を返上して、調査と編さん作業に没頭しました。そうして、『蚕桑集成』という書物を編さんすることができたのです。
展示では、当館が所蔵するウィーン万国博覧会にまつわる資料を通じて、あまり知られていない、栄一との関わりをご紹介しています。
主なものとして、「ウィーン万国博覧会の出品物募集広告」、『澳国博覧会報告書』、『澳国博覧会参同記要』などの万博関係資料や、「蚕桑集成(小引)」草稿、「佐野常民宛渋沢栄一書簡」、「養蚕場実地研究之条件並見聞之次第編纂之順序」など、養蚕書を編さんした際の資料を展示しています。
また、日本のウィーン万博参加に貢献した、お雇い外国人であるゴットフリート・ワグネルと栄一との関わりを示す、「旭焼組合」についての資料も公開しています。
多くの皆様にご来館いただければ幸いです。
(学芸員 関根 仁)