わがまちの渋沢栄一

1 化学肥料創業記念碑 ~東京都・江東区~

『青淵』No.844 2019年7月号|情報資源センター

 渋沢栄一は、人口増加による食糧問題の解消のため、高峰譲吉(たかみね・じょうきち、1854-1922)らとともに化学肥料による農作物の生産性向上を計画し、1887(明治20)年、日本初の化学肥料会社となる東京人造肥料会社(現・日産化学株式会社)を設立しました。

 当初、化学肥料は世間になかなか理解されず、その普及は一筋縄ではいきませんでした。また工場が火災に遭い全焼してしまうという悲劇にも見舞われ、会社の存続の危機にも直面しました。けれども栄一は、「国家の為めになる事業であり、農村振興上必要なものであると考へ、而も将来必ず有望な事業となる」「私一人でも諸君の株式全部を引き受け、借金をしてもこの社業を継続経営して、必ず事業を成し遂げる決心」(注1)と述べ、事業の発展に尽力しました。

 1943(昭和18)年12月1日、東京人造肥料会社の創業の地である東京都城東区大島町(現・東京都江東区大島)にて、「化学肥料創業記念碑」の除幕式が行われ、式典には渋沢栄一の嫡孫である渋沢敬三も参列しました。記念碑の建設会発起人には、化学肥料業界の関連会社・団体および関係者のほか、栄一の事績を顕彰するため財界人によって結成された財団法人青淵翁記念会(注2)も名を連ねています。

 記念碑のある同地は東京都に寄付され、翌年釜屋堀公園として開園しました。記念碑は日本の農業発展に貢献した栄一ら先人の功績を今日に語り継いでいます。

【注】
1.『渋沢栄一伝記資料』第12巻、p.173
2. 同会は1946(昭和21)年に財団法人竜門社と合同し、のち現・公益財団法人渋沢栄一記念財団となる。

化学肥料創業記念碑

化学肥料創業記念碑

碑文には、渋沢栄一らが「食糧問題ハ実ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ農業ノ発達ト肥料ノ合理的施用トニ因リ之カ増収ヲ企画スヘキ堅キ決意」をもって肥料製造を開始し、その事業が「農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナル貢献」をしたことを同記念碑に記すことによって、その偉績を顕彰するとしている。
 題字の「尊農」は、大日本農会第4代総裁の梨本宮守正王による。左側面に世話人、背面に記念碑建設会発起人の名前が記されている。記念碑脇には国旗掲揚台も併設。(写真は2019年4月18日撮影。)



【主な参考文献】
『渋沢栄一伝記資料』第12巻、第53巻
『青淵』35号、76号、216号、233号、825号
『大日本人造肥料株式会社五十年史』(大日本人造肥料株式会社、1936年)
『百二十年史』(日産化学工業株式会社、2007年)


【参考リンク】
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
・第12巻|東京人造肥料株式会社
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?12#a21031801
・第53巻|大日本人造肥料株式会社
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?53#a32031001

渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図
・人造肥料業〔商工業:化学〕
https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/histories/view/026

渋沢社史データベース
・大日本人造肥料(株)『大日本人造肥料株式会社五十年史』(1936.11)
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_basic.php?sid=3400
・日産化学工業(株)『百二十年史』(2007.05)
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_basic.php?sid=3510

※本記事は『青淵』2019年7月号に掲載した記事をウェブサイト版として加筆・再構築したものです。


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