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『青淵』No.911 2025年2月号|情報資源センター 企業史料プロジェクト担当 松崎裕子
「記録」とは過ぎ去った過去の事実・出来事を証明するものです。
2004年末に開始された情報資源センターの「企業史料プロジェクト」は、道徳経済合一説を唱えて、生涯に約500の会社に関わった渋沢栄一の偉業・徳風を跡づける鍵の一つが企業の活動の記録、すなわちアーカイブズであると認識したところから出発しました。約500の会社の中には、今なおビジネスを展開する企業が少なくありません。したがって、企業の記録がどこにどのような形で残っているのかを探ることは、渋沢栄一とその時代の事実・出来事に迫ることにつながります。このようにして、企業の記録資料の所在と概要を調査し、これをウェブサイトで発信する「企業史料ディレクトリ」編纂の試みから「企業史料プロジェクト」は始まりました。
このような企業アーカイブズについての情報のリスト化・編纂作業は日本で初めての試みでした。米国では1969年から米国アーキビスト協会内の企業アーカイブズ委員会(のちに部会)が、英国では1985年からビジネス・アーカイブズ・カウンシルが、それぞれ数次にわたって企業アーカイブズのリストを紙媒体で刊行していました。米国の場合、1997年からはインターネットによる公開に移行しています。
「企業史料プロジェクト」の最初の取り組みとして、準備期間を経て2007年に「企業史料ディレクトリ」編纂に取りかかった当時は、企業史料やアーカイブズというと会社史そのものや社史編纂事業と同一視されることも多く、既往の事実と物語(ストーリー)は、刊行された社史によって知るのが一般的な状況でした。しかし、1990年代以降のデジタル化の進展により、企業の記録資料は、書物としての社史編纂のみならず、さまざまな業務に用いられる資産として、その利活用の領域が広がりました。この点は、記録管理に関わる国際標準ISO15489-1(対応国内規格はJIS X0902-1)の改訂(国際標準初版2001年、同改訂版2016年、国内対応規格初版2005年、同改訂版2019年)で、記録とは「証拠」であるとともに「資産」であると定義されるようになった点にも対応しています。
一方、2000年代に入って以降、企業ガバナンスの改善・強化・向上・洗練化を支えるものとして、アカウンタビリティ、透明性、法令遵守といった規律が重視されるようになりました。こういった規律にとって、記録や情報の適切かつ効果的な管理は必要不可欠です。にもかかわらず、組織内の記録や情報、アーカイブズ部門への投資は収益に直結せず、コストと見なされがちなのも事実です。「記録の管理は利益には直接結びつかない。しかし、よき企業統治に寄与する」― 記録の管理に心を配り、手間をかけることは、渋沢栄一の唱えた道徳経済合一説を現代的に実践するための具体的なあり方です。「企業史料プロジェクト」が終始一貫して追求してきたのは、まさにこの点です。
現在、諸外国と比較して遅れていた記録管理・アーカイブズ管理に関わる専門的・体系的な教育・研究を、カリキュラムの中に取り入れる大学・大学院が日本国内で増え続けています。そのような中、「企業史料ディレクトリ」は企業のアーカイブズに関する貴重な情報資源と位置付けられるようになり、近年アーカイブズに関する科目を新設した昭和女子大学では同ディレクトリを教材として用いています。
企業史料プロジェクトではこのほかに、2008年から2024年まで国際アーカイブズ評議会企業労働アーカイブズ部会(ICA/SBL、2015年まで)、同評議会企業アーカイブズ部会(ICA/SBA、2015年以降)の運営委員を務めるなど、国内外の関係機関との連携に力を注ぎました。また、企業の記録資料の保護、デジタル化、利活用等に関わる海外の最新の取り組みを日本に紹介するとともに、日本の企業アーカイブズの先進的な取り組みを海外に伝え、信頼関係を構築してきました。このような活動から得られる情報、それらをさらに深める情報をメールマガジン「ビジネス・アーカイブズ通信」、ウェブページ「世界/日本のビジネス・アーカイブズ」によって広く発信することも「企業史料プロジェクト」の大きな柱となりました。これらに掲載した記事をきっかけに、新たにアーカイブズの整備を開始した企業や、これから挑戦していきたいという企業の方々との交流も、本プロジェクトの中で育まれてきました。
生成AIの登場以降、記録資料の目録作成や本文データの要約、古文書の処理、多言語対応、ボーンデジタル記録の評価選別など、アーカイブズ実務の現場へのAIの導入とその力の発揮が期待されています。
企業が新たな価値を生み出し、公益に寄与し、持続的に発展していくためには、国際標準の理解やAIをはじめとする新たなテクノロジーの動向に注意を払いつつ、変化し続ける企業活動の記録を確実に取得、整理、保護、利用提供する実務担当者が不可欠です。それを支えるのは、記録管理やアーカイブズ関係者の横のつながり、すなわち専門団体、あるいは協会といったものでしょう。さらに、イギリス、ドイツ、イタリアなど欧州での取り組みにみられるような、企業が保管・保存できなくなった記録資料をレスキューし、公的あるいは私的なアーカイブズ機関に橋渡しするような取り組みも大切です。専門団体や協会といった横のつながりの拠点には、記録遺産の保護と関連情報の集約や発信をサポートする情報センターの役割も求められます。
このような横のつながりの育成と、それを支える働きは、多くの企業の成長を支えた渋沢栄一の遺志を受け継ぐものと言えます。渋沢栄一が財界活動によって多くの企業の成長に貢献したように、企業アーカイブズ、企業アーキビストの横のつながりを支援し、牽引するような働きが、渋沢の遺志を引き継ぐ人々に期待されるのではないでしょうか。そのような働きこそが、企業アーカイブズと企業自身の持続的発展、レジリエンス(回復力)を支える土台となります。今日、そのために最も重要なことは、専門的な人材を起用することでしょう。その実現を心から期待しています。
(情報資源センター 企業史料プロジェクト担当 松崎裕子)