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『青淵』No.928 2026年(令和8)7月
渋沢史料館は、8月4日から9月13日まで、収蔵品展「御正 伸の渋沢栄一」を開催いたします。本誌読者の皆様の中には、その名前を覚えていてくださる方がいらっしゃるかもしれません。
本誌2023年4月号の「史料館の窓」のタイトルは、本欄同様「御正 伸の渋沢栄一」でした。そのときは、画家・御正 伸(1914~1981)の長男・御正 進氏より当館にご寄贈いただいた御正 伸の挿絵原画「血洗島の渋沢翁の生家」「渋沢篤太夫、思いはパリーに...」について紹介し「これらの挿絵がどの作品のために描かれたのかは、まだ判明していません」と記して情報提供を呼び掛けました。
その後、関連と思われる27点をご寄贈いただき、これらすべてを紹介する展覧会を企画しました。しかしながら、開催することが決まってもなお、挿絵の制作目的はわかりませんでした。
御正 伸(本名:御正禎伸)は東京日本橋の時計商の長男でした。祖父母に連れられて芝居を見たのが5、6歳の頃。子ども時分は家から近い明治座に小遣い銭を握りしめて立見通いをしていたといいます。東京市立京橋商業学校を卒業すると家業を営む傍ら絵を描き、仕事が終わってから川端画学校、鈴木千久馬絵画研究所で学びます。この頃より、御正伸兵の名で『婦人倶楽部』『少女倶楽部』等に漫画を発表、その後、劇団「都市劇場青陽会」を結成して美術監修などを手掛け、国民新劇場で上演の「じやがたらお春」では舞台装置を担当しました。御正 伸として小説の挿絵を手掛けるようになると、家業から離れて画家として独立。「朝から夜中まで百パーセント画をかけるのが嬉しくてたまらなかった」(「私の自画像」『御正 伸作品集』1997年(平成9)御正登喜子発行)と本格的に油彩画に取り組みました。
戦後は雑誌や新聞の挿絵を数多く手掛け、時代小説から現代ものまで、それぞれの物語を臨場感あふれる作品で彩りました。一方で、光風会展に入賞し、その後会員となるなど、自身の作品を描き続けます。光風会を退会し三軌会に移ると、幼いころから馴染んだ歌舞伎を題材として新境地を開きます。芝居の世界が経験として身についていた御正の芝居絵は、高く評価されました。その活動は、水墨画、随筆、テレビドラマの監修まで幅広く、多彩な知識と経験に基づく豊かな作品が残されています。美術評論家の林紀一郎は、その筆さばきの見事さと独特の画境、美学から、御正 伸を「粋な絵師」と評しました。
御正 伸は、渋沢栄一の四男で実業家・随筆家の渋沢秀雄が1958年(昭和33)1月から翌年4月にかけて『実業之日本』(実業之日本社)に連載した「父渋沢栄一」の挿絵を手掛けています。そのため、当初、御正家から当館が受贈した挿絵原画は「父渋沢栄一」のために描かれたものかと考えていましたが、一致する図はありませんでした。その後、先述の通り本誌で呼びかけたり、国立国会図書館で雑誌を調査したりしましたが、見つけられないまま展示の開催を決めました。
開催まで3か月となった今年4月末、受贈した原画が、直木賞作家で経済学者としても知られる南條範夫(1908~2004)著『幕府パリで戦う』の挿絵であることが判明しました。原画が慶応3年の渡仏の記録『航西日記』の詳細な記述に依る内容であることなどを同僚に相談したところ、『幕府パリで戦う』ではないかという話になり、書庫にあった同作品カッパ・ノベルス版(光文社)でその一部の掲載を確認しました。さらに、当館が受贈した挿絵原画の多くが、「幕府パリで戦う」の初出である週刊『潮流ジャーナル』(1967年(同42)恒文社)に連載された挿絵と一致することもわかりました。
物語は、昭和の初め、1人の学生が雑誌の取材で飛鳥山の渋沢栄一を訪れるところから始まります。若者の左傾について尋ねられた栄一が、攘夷運動から一橋家仕官、幕臣として渡仏した、若き日を回想して語るという形式です。もちろんフィクションですが、『航西日記』などの資料を参考にしていることもわかります。
舞台は江戸時代の日本とヨーロッパであり、幅広い時代を感情豊かに描く御正にとって本領発揮といった仕事であったことでしょう。御正が他界した翌年に開かれた水墨挿画展に南條が寄せた「いつもすべてお任せ切りで私の方から何も注文をつけたことはない。次はどんな絵が現れるかと愉しみにしていたものである」(南條範夫「御正さんのこと」『御正伸作品集』)というコメントからは、2人の信頼関係をうかがうことができます。
なお、「幕府パリで戦う」は『潮流ジャーナル』の廃刊まで21回連載され、それに加筆されたものが光文社カッパ・ノベルス、後に光文社時代小説文庫として刊行されました。2021年からは集英社文庫で刊行されており、今もなお新刊書を手に取ることができます(但し文庫版いずれにも挿絵はありません)。
本展では、挿絵原画29点を、小説の一節とともに紹介します。「粋な絵師」御正伸の描く渋沢栄一のものがたりを楽しんでいただけましたら幸いです。みなさまのご来館をお待ち申し上げます。
(学芸員 永井美穂)