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『青淵』No.775 2013(平成25)年10月号
七社神社拝殿に今も掲げられる
栄一揮毫の社名額
(2013年8月撮影) 渋沢史料館のほど近くにある七社神社拝殿を見あげると、社名額(写真)が掲げられています。この額表には栄一の名はありませんが、毎年9月秋分の日とその前日に行われる同社例大祭のおりには、そのもととなったと思われる栄一書「七社神社」掛軸が西ヶ原の町中に設けられる御神酒所に掛けられ、この地区の人々に、社名額が栄一揮毫(きごう)のものであること、同社、西ヶ原と栄一との間に関わりがあったことを改めて認識させてくれます。
●西ヶ原の人々との交流のはじまり
明治12(1879)年、栄一は西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えました。明治34年5月10日には、栄一は飛鳥山邸に移転し、本邸とします。そしてこの年の9月23日夜、栄一は近くの七社神社の祭礼を観に行っています(「栄一日記」)。同社は、江戸時代から旧西ヶ原村の鎮守で、栄一も同村内に飛鳥山邸を構えたことをきっかけに氏子になったようです(『七社神社永代記録』昭和7年、以下『永代記録』)。栄一は同社とだけではなく、同社の氏子でもあった地元・西ヶ原の人々とも関わりを深めていきます。
明治22年に西ヶ原村は近隣村々と合併し滝野川村(その後、滝野川町)となりましたが、その後も七社神社を中心に旧西ヶ原村の人々のつながりはつづき、この地区を単位にした新たな組織が誕生していきます。明治36年には西ヶ原互親会という自治会が誕生し、七社神社祭礼、会員相互の親睦、消防などの事業を行い、栄一も名誉会員として同会を支援しました(『渋沢史料館企画展 王子・滝野川と渋沢栄一』図録)。
●西ヶ原青年会設立を支援
大正8(1919)年9月20日には、西ヶ原地区在住の約350名の青年により西ヶ原青年会が誕生します。同会設立にあたり、滝野川町長や助役の相談を受けた栄一は「誠に結構な事」と喜び、発足に向けて動きはじめます。栄一は同じくこの地区に住む古河虎之助(古河市兵衛の長男、古河財閥三代目)にも相談しました。栄一は会設立とその活動の拠点となる「会堂」建築のため古河とともに5000円の寄付をします(『永代記録』、『竜門雑誌』389号)。
同年11月2日、滝野川町民懇親園遊会も兼ねた西ヶ原青年会発会式が飛鳥山邸において開催され、栄一は祝辞を兼ねた講演を行いました。約700名の来会者を前に栄一は、個人において知識が進んでも徳を修めることに欠けたならば、一家も一郷も一国も安寧(あんねい)がはかられず、全世界にもさまざまな紛議がおこると、第一次世界大戦を経験した世界情勢をも鑑みながら語ります。そして、「堅固な平和」を築くためにも、全世界の基盤となる小地域で強固な団体を組んで、質実純朴にして「義務的観念」(社会への責任意識)をもって、地域において道徳と経済の一致を進めていってほしいと期待を述べました(『竜門雑誌』389号)。
西ヶ原青年会の活動拠点となる「会堂」は、七社神社社務所を兼ねて、同会発足の翌年大正9年9月22日に落成(建坪56坪)しました。大正11年2月5日には、この会堂において、同青年会主催で栄一の米国帰朝祝賀会が開かれたようです(「集会日時通知表」)。
●七社神社拝殿社名額揮毫
栄一はその後も、西ヶ原の諸団体や人々との交流、町の事業に協力していきます。大正15年5月23日には西ヶ原互親会の20周年記念祝賀会開催にあたって、栄一は「双手ヲ挙げて」賛成し、その会場として飛鳥山邸を提供します。栄一も出席し、式典・園遊会が行われています(「滝野川町関係書類」)。
西ヶ原の人々の明治以来の願いであった七社神社の無格社から村社への昇格が、昭和3 (1928) 年9月21日に実現し、同月23日には拝殿新築もなりました。翌4年3月23日に、昇格・拝殿新築落成式を兼ねた式典が挙行されます。これを記念し、栄一は同社氏子総代から依頼され、新築拝殿正面に掲げる社名額用に揮毫をしています(『永代記録』)。こうして拝殿に掲げられ社名額は、これまでの栄一と西ヶ原の人々との交流を象徴的に示す意味を持ったと思われます。
●栄一の病気平癒を祈願
それから2年余後の昭和6年8月上旬、検査により栄一の大腸にS字状部狭窄(きょうさく)が認められます。10月14日、飛鳥山邸において手術が行われましたが、病状はおもわしくありませんでした。こうした栄一の病状は、10月31日に公表され、新聞・ラジオで報道されました。
この報道により見舞い客が急増します。翌11月1日朝には、西ヶ原互親会の代表者も飛鳥山邸に駆け付け、栄一を見舞います。そこで栄一の容体は今朝は熱も下がり、気分もよいと伝え聞きますが、高齢でもあり憂慮に堪えなかったため、栄一の病気平癒祈願を行おうと、すぐに会員である西ヶ原の人々に、夜8時に七社神社へ参集するよう呼びかけました(「寿徳院殿御葬儀記録」)。しかし、こうした西ヶ原の人々の願いも届かず、栄一はその10日後の11月11日に永眠しました。その願いは届きませんでしたが、西ヶ原の人々の栄一への思いが、七社神社拝殿に今も掲げられている栄一揮毫の社名額を通して伝わってきます。
まもなく82年目の栄一の命日を迎えます。渋沢史料館では11月10日(日)、「青淵忌」として無料公開を行い、上映会や展示・建物の解説、旧渋沢庭園のガイドツアーなど各種催しを行う予定です。皆様のご来館をお待ちしております。
(学芸員 桑原 功一)