社史にみる渋沢栄一

1 『帝国ホテル百年史』(1990年11月)

『青淵』No.921 2025年12月号|情報資源センター 若狭正俊 / 村橋勝子(社史プロジェクト監修者)

 『帝国ホテル百年史』は、同ホテル初めての社史である。ホテル設立計画から今日に至る重要事項を網羅した実証性の高い1,000ページを超える社史だが、僅か3年弱で編纂・発行された。巻末に掲載された資料編と年表には情報が過不足なく収められ、なにより索引があるのが素晴らしい。この百年史は、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスでその全編を読むことができる。(注1)

 帝国ホテルは、1887(明治20)年12月、有限責任東京ホテルとして設立された。第1回帝国議会が招集された1890(明治23)年の7月に有限責任帝国ホテル会社に改称、同年11月、外国人賓客の迎賓館たる初のグランドホテルとして開業した。明治維新後、外国要人の来日も急増していたが、首都・東京にそれにふさわしい設備と規模を有するホテルがなかったことから、外務卿井上馨が渋沢栄一、大倉喜八郎、益田孝らに諮り、岩崎弥之助、安田善次郎、浅野総一郎などわが国近代経済の草創期に頭角を現した気鋭の企業家たちが中心となって会社設立・ホテル建設計画を進めた。最大の出資者は宮内省で出資比率は20%強、建設地は鹿鳴館の隣、外務省管轄の国有地である東京府麹町区内山下町1丁目(現・東京都千代田区内幸町1丁目)の一角約4,200坪が無料で貸与された。まさに官民一体の一大プロジェクトだった。建設工事は当初、ドイツ人建築家チーツェとメンツの設計で進められたが、基礎工事に不安があったため一時中止、1890(明治23)年11月に落成・開業した建物は、メンツの現存しない設計図に基づくと思われる和洋折衷様式が取り入れられた、日本人建築家・渡辺譲による設計である。開業当初の陣容は、理事長が栄一、理事が大倉喜八郎、専任理事が横山孫一郎。本館が600坪余、平屋、附属家部分を加えて延面積は1,295坪余。食堂のほか踏舞室(奏楽室)、談話室、喫煙室、転球室(玉突き場)、新聞縦覧所などを備え、客室は60。室料は1日50銭から7円、室料・食事代ともで1日2円75銭から9円くらい。当時、一般的だった旅籠が1泊2食付きで20銭から50銭だったから、帝国ホテルの料金は相当に高かった。開業後6ヶ月の宿泊客は357人。邦人客を多く望むことは難しく、外国賓客・要人の投宿も少なくスタート直後は営業不振に苦しむこととなった。
 1893(明治26)年10月には商法施行により定款を全面変更し、株式会社に改組。栄一は取締役会長に就任した。1894(明治27)年6月20日、東京を「安政の強震以来」とされる大地震が襲って本館が大破したため全面的な修復工事を要したこともあって、明治30年代に入っても業績は芳しくなく、1日あたりの投宿は1~2人と惨憺たる状態が続いた。事態打開のため、支配人に、ドイツ人のエミール・フライクを取締役の3倍の俸給で招聘、フライクは施設・サービス両面の改善、経費節減、管理職人事の刷新、従業員の再訓練などを断行、苦境を脱することができた。見事に業績回復に成功したフライクだったが、半年間の帰国中、心臓病のため死去、代理を務めた兄カール・フライクも、1年後、東京で死去した。
 次期支配人として白羽の矢が立てられたのは深い教養と才気の持ち主、林愛作だった。当時、林はニューヨークの古美術商・山中商会主任として富豪らを相手に米国、ヨーロッパ、日本、中国を行き来し、活躍していたことから、上流階級の習慣・考え方・嗜好、また、欧米の一流ホテルについても熟知していた。栄一は、古希を迎えた1909(明治42)年6月に帝国ホテル取締役会長を辞任していたが、関西財界の重鎮・松本重太郎に書簡で林への働きかけを要請、松本らは山中商会と話をつけた。外堀を埋められた林は、(1)帝国ホテルの改築、(2)帝国ホテルのすべてを一任するという条件で、同年8月に支配人、10月には常務取締役にも就任。明確な経営理念のもとに、積極果敢な経営改革を実行していった。帳簿類は複式、ホテル内に郵便局開設、宿泊客に鉄道乗車券の委託販売を開始、市内観光のための自動車部開設、自営のランドリー設置など、逗留外国人の便宜を図ったほか、パンの自家製造も開始。従業員と家族の福利厚生のために共済会を新設した。林を得て、経営は完全に立ち直ったばかりでなく、彼が行ったこれら新施策はいずれも、その後の帝国ホテルの規範となった。
 開業から20年近くを経て、帝国ホテルは、建物、設備も旧式になっていたことから、新館建設が必須であったが、最大のネックは用地問題だった。1916(大正5)年9月にようやく「霞が関の官有地に内務大臣官邸および付属建物を帝国ホテルが新築し、寄付すること」(注2)を条件として、内務省から同敷地の使用許可が出たが、この条件の実行に月日を要し、正式に許可がおりたのは、1920(大正9)年1月。1906(明治39)年頃から栄一が用地使用の交渉を内務省と始めてから14年が経っていた。新館の設計者は、米国人建築家フランク・ロイド・ライトである。工事は1919(大正8)年9月に開始されたが、着工の遅れ、別館と本館の焼失という2度にわたる災厄、さらに工費も大幅に膨れ上がり、後に「ライト館」と呼ばれる鉄筋コンクリートおよび煉瓦コンクリート構造、地上5層・地下1層、客室270の新ホテルが完成したのは1923(大正12)年8月末のことだった。ところが、9月1日、新館落成披露の準備中に関東大震災が発生。新館は設計の卓抜さと熱源を電気に統一していたことに助けられ、被害は軽微だったことから、この年の4月に支配人に就任していた犬丸徹三は、被災者に向けて最大の援助を行った。宿泊料を無料にし、食料も提供。各国の大使館や新聞社には事務所として客室を提供した。

 帝国ホテルは、わが国の近代化への歩みと同じくし、時代の困難さを共にしながら、明治、大正、昭和、平成、令和の5代にわたる135年を生き続けてきた。しかも、同じ名称、場所、業態でだ。同ホテルの基盤は、その歴史の前半、特に林愛作支配人の時に作られたといっても過言ではない。1世紀以上、一貫して最高のホスピタリティを追い続け、接遇の実を積み重ねてきたことが、世界中の人々から評価されている所以だろう。この社史には、その歩みが余すところなく記録されている。(M)

渋沢栄一こぼれ話

栄一胸像
栄一胸像(「渋沢栄一フォトグラフ」より)

 1926(大正15)年7月13日、帝国ホテルで栄一の寿像除幕式が行われ、当時86歳の栄一も出席した。取締役社長であった大倉喜七郎は「株式会社帝国ホテル及従業員一同ハ、閣下ノ御功績ヲ不朽ニ伝ヘ、聊謝恩ノ微意ヲ表シ奉ランガ為ニ、御寿像製作中ノトコロ、玆ニ完成シテ本日除幕式ヲ挙クルニ際シ、閣下並各位ノ御臨場ノ栄ヲ得タルハ誠ニ感謝措ク能ハサルトコロナリ、希クハ閣下盛々御自愛、為邦家後進ヲ御指導賜ハランコトヲ」(注3)と述べ、栄一の長年にわたる尽力に謝意を示した。
 約100年が経った現在も、この胸像は大倉喜八郎、犬丸徹三の像と並んで帝国ホテルの敷地内にあり、同ホテルと栄一の関係の深さを伝えている。(W)




【注】
1. 帝国ホテル百年史 : 1890-1990〔国立国会図書館デジタルコレクション〕(2025年12月4日確認)
  https://dl.ndl.go.jp/pid/13099231
2.『帝国ホテル百年史』、165頁。
3.『渋沢栄一伝記資料』、第53巻539頁。

【主な参考文献】
『帝国ホテル百年史』(帝国ホテル、1990年)
『帝国ホテル百年の歩み』(帝国ホテル、1990年)
『渋沢栄一伝記資料』第53巻


【参考リンク】
渋沢社史データベース
・(株)帝国ホテル『帝国ホテル百年史 : 1890-1990』(1990.11)
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_basic.php?sid=14750

渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図
・ホテル〔商工業:ホテル〕
https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/histories/view/057

デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
・第53巻|株式会社帝国ホテル
大正15年7月13日(1926年) 是日、当ホテルニ於テ、栄一ノ寿像除幕式挙行セラル。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK530105k_text

※本記事は『青淵』2025年12月号に掲載した記事をウェブサイト版として一部再編集したものです。


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