情報資源センターだより

50 日本女子大学校と渋沢栄一 : 『渋沢栄一伝記資料』の記述から

『青淵』No.806 2016年5月号|情報資源センター 専門司書 門倉百合子

 この春まで放映されたNHK朝の連続ドラマ「あさが来た」では、日本初の女子大学校設立をめぐる話題が演じられていました。渋沢栄一はこの学校のモデルとなった日本女子大学校の設立と運営に多大な尽力をしており、その内容は『渋沢栄一伝記資料』(以下『伝記資料』)第26巻と第44巻にまとめられています。そこで『伝記資料』の記述を抽出してご紹介します(表記は『伝記資料』のママ)。

日本女子大学校の設立と渋沢栄一

 日本女子大学校は成瀬仁蔵(1858-1919)が1896(明治29)年から創立に着手し、1901(明治34)年東京に開校した学校です。渋沢栄一は当初から設立発起人に加わり、第1回発起人会では創立委員および会計監督を引き受けました(『伝記資料』第26巻p874)。開校の準備に際しては建築委員および教務委員も引き受けています(同p881)。開校後1904(明治37)年組織が財団法人に変更されたときには、栄一は評議員となりました(同p892)。

 栄一は学校の運営資金について、多大な寄付をしています。『伝記資料』第26巻には「1899年 第一回募金中ニ金二千五百円ヲ寄附」(p880)、「1904年 第二回募金中ニ金五千円ヲ寄附」(p892)、「1907年 第三回募金中ニ金二万円ヲ寄附」(p905)という金額が記されています。これだけでも合計27,500円となり、莫大な金額であることがうかがえます。またお金だけではなく学生寮も寄付しています。「1908年 栄一ノ寄贈セル「晩香寮」ノ開寮式ニ臨ミ祝辞ヲ述ブ」(p910)。さらには自ら寄付をするだけでなく、成瀬らと共に地方へ募金にまわっていることが、『伝記資料』第44巻に記載されています。「1910年 当校ヘノ寄付金募集並ニ女子教育ノ必要ヲ説カンガタメ、栄一、当校校長成瀬仁蔵、当校評議員森村市左衛門等ト共ニ、信越地方ニ旅行」(p571)、「1915年 当校経営ニ付キ尽力シ来リシガ、是日大阪ニ於テ成瀬仁蔵ト共ニ住友吉左衛門ヲ、翌十日住吉ニ久原房之助ヲ訪ヒ、当校寄付金ノ件ヲ依頼」(p584)。

渋沢栄一の案内した諸外国の客人と皇族

 日本女子大学校が開校してからは、栄一は諸外国から訪れた客人を何人も学校に招き、案内しました。客人はジャーナリストや大学関係者だけでなく、実業家や国家元首にまで及び、栄一が日本における女子教育の現場を誇らしげに案内している様子が目に浮かぶようです。講演会を開催して客人の演説を拝聴したこともたびたびありました。皇族方が訪れたときも自ら案内をしています。『伝記資料』に挙がっている客人を国別に列記すると、次のようになります。

【イギリス】 評論雑誌記者アルフレツト・ステツト、ロンドン大学評議員シドニー・ウエッブ夫妻
【フランス】 実業家アルベール・カーン、前総理大臣エドアール・エリオ夫人ブランシュ・エリオ
【インド】 パロダ国国王マハラジャ・サヒブ・ガイカー、詩人ラビンドラナート・タゴール(2回)
【アメリカ合衆国】 シカゴ大学教授ジェー・ピー・グード、スタンフォード大学総長デーヴィッド・エス・ジョルダン、ニユー・ヨーク日本協会会長リンゼー・ラッセル夫妻及ビインデペンダント誌主筆ハミルトン・ホールト夫妻、カーネギー平和財団ヨリ派遣セラレタルハミルトン・ダブリュー・メービー、シドニー・エル・ギューリック、同国シカゴ大学神学部長シェラー・マシューズ及ビ同国特命全権大使ジョージ・ダブリュー・ガスリー、ハワイ大学教授ケー・シー・リーブリック、ウィリアム・イー・グリフィス夫妻
【日本の皇族】 皇太子妃殿下(明治期)、東伏見宮周子妃殿下、皇后陛下(大正期)

学校行事と渋沢栄一

 栄一は日本女子大学校の役員に名を連ねただけでなく、開校式を始めとした学校の式典でたびたび演説をし、在校生や関係者に講話を行いました。毎年の入学式、卒業式、図書館の開館式、新任評議員披露式、創立周年記念式などが『伝記資料』に記載されています。また成瀬仁蔵、大隈重信、和田豊治ら学校関係者の追悼式でも演説をしています。

 桜楓会(おうふうかい)は日本女子大学校開校3年後の1904(明治37)年に発足した同窓会です。栄一はこの会の行事でも演説をし、機関誌『家庭週報』や同会刊行の『成瀬先生伝』『成瀬先生追懐録』に寄稿していることが、『伝記資料』に記載されています。

 このように学校運営に尽力していた栄一に対し、日本女子大学校が栄一のために開催した行事もありました。1902(明治35)年の欧米旅行送別会、1909(明治42)年の古稀祝賀会、1922(大正11)年の第4回渡米帰国歓迎会、1929(昭和4)年の九十寿祝賀会などがそれに当たります。その後栄一は1931(昭和6)年4月に日本女子大学校の校長に就任していますが、同年11月に栄一が没したときには全校授業を中止して哀悼式が催され、葬列を全校生徒が沿道で見送ったのでした。


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