情報資源センターだより

5 大日本物産図会について

『青淵』No.671 2005年2月号掲載|実業史研究情報センター長 小出いずみ

大日本物産図会
大日本物産図会(若狭国 蒸鰈製造之図)
 渋沢敬三と竜門社が「青淵翁記念日本実業史博物館」の為に集めた資料には、幕末から明治期にかけて刊行された錦絵がたくさん含まれています。色鮮やかで情景を活写した錦絵は、写真がなかった頃の様子を視覚的に写し出し、当時の社会をパワフルに今に伝えています。実業史研究情報センターでは、この錦絵を研究に利用できるように資源化を進めていますが、たくさんある錦絵のうちから、まず手始めに「大日本物産図会」を取り上げることにいたしました。

 大日本物産図会は日本各地の物産をそれに携わる人々とともに描き出したシリーズ物の錦絵です。一枚物の錦絵の大きさに、竪17センチ、横24センチほどの小さな横長の絵を二枚上下に配置して摺られています。画帖に仕立てられたり、二図一枚のまま、あるいは裁断してバラで、売られていたようです。現在国文学研究資料館に保存されている「日本実業史博物館」準備室旧蔵コレクションには、一つの国(地方)について二図一枚の状態で41枚収められていますが、今となってはもう、これだけの数のペアがそのままで残っているのは他にないのではないでしょうか。

 ところで錦絵はどのように出版されていたのでしょうか。錦絵を作るには、絵を描く錦絵師(画工ともいう)、絵を色に従って版木に起こす彫師、何工程も摺り重ねてそれを仕上げる摺師が揃っていなくてはなりません。江戸時代には、これらの技能が組み合わされ、地本錦絵問屋という、資本をもった一種の事業家によってまとめられて、出版されるシステムが整いました。錦絵問屋の同業者組合では、役員(行事)が自主検閲をした上で出版を届け出ていましたが、天保12年に株仲間の制度が廃止され、幕府の役人の絵名主による検閲に代わり、それが明治八年には内務省の検閲に引き継がれます。つまり届け出の必要から、いつ誰が出したか、という出版事項が記載されていました。小売は自由だったそうですが、多くの絵は江戸で出版されていたようで、大日本物産図会では東京の物産として錦絵が描かれています。

 文化文政の頃に全盛期を迎えた錦絵ですが、幕末明治の変動期にあっては、次々と起こる事件や新規な事物について描く、というビジュアル報道的な役割を担い、やがて、発達してくる写真や新聞にその機能を譲り、再び美術の領域に帰っていきます。

 さて大日本物産図会には明治10年8月10日と出版届日が書かれていますが、それは上野で開催された第一回の内国勧業博覧会の始まる10日あまり前のことでした。博覧会の出品目録には掲載されておらず、また、博覧会場で今日のミュージアムショップのようにして販売されていたのか、確かめられませんが、博覧会目当てに発売された、と考えてよいのではないでしょうか。出版したのは、日本橋通一丁目の錦絵問屋大倉孫兵衛でした。

 孫兵衛は天保14(1843)年生まれ、父は四谷伝馬町で萬屋という絵草紙屋を営んでいました。孫兵衛は横浜で絵草紙を売っていて貿易業の森村市左衛門と知り合い、森村組を手伝うようになります。やがて絵草紙屋から出版業の大倉書店、出版の材料をまかなう大倉洋紙店、また森村組で輸出する陶器作りから日本陶器、日本碍子などを起こし、発展させていく実業家となってゆきます。

 それにしても大日本物産図会は大人気だったようで、孫兵衛の店を描いた銅版画や、大倉書店発行の書物の広告からも、その様子がわかります。

 画工の安藤徳兵衛は、天保13年深川生まれ、と言われています。初代広重の晩年、徳兵衛十四、五歳のころ入門し、最初は重実、のち重政と名乗っていました。二代広重(重宣)が出た後の安藤家を継いだのは慶応年間と見られ、やはり2代広重と称していたようですが、実際の2代と区別するために、3代広重と呼ばれています。活動の盛りは慶応から明治10年代までですが、彼は西洋館、蒸気車、数々のイベントなど、明治開化の風物を精力的に描きました。さらに初代広重にならって「東京名所図会」や「東海名所改正五十三駅」など数多くのシリーズ物を生み出しました。

 大日本物産図会は、樋口弘(『幕末明治開化期の錦絵版画』味燈書屋、昭和18)によれば、大錦竪二図入、60枚、つまり120図ですが、完全に揃っているコレクションの所在は明らかになっていません。1969年に光彩社から原寸を二倍に拡大した複製が出版されましたが、これには110図があり、さらに1980年にはこの他に8図が「新発見」として、『季刊浮世絵』という雑誌に掲載されました。

 ところで広重は全国にまたがる大日本物産図会の光景をどのようにして描いたのでしょうか。いろいろ調べていくと、どうも全部は実際に写生に出かけたものではない、ということがわかりました。というのは、別に元絵が存在するからです。たとえば、寛政十一(1799)年発行の「日本山海名産図会」から把握できた範囲でも25図、他の名所図会からの引用もあり、さらに、絵に付された説明文が前年出版の他の本とそっくりなところもあります。もっとも広重の絵は元絵よりはるかに生き生きとしていますし、これらの事実は、大日本物産図会の信憑性を減じるというより、明治10年頃には数十年を隔てた産業シーンがまだ変わらなかったことについての証言、と考えることができるのではないでしょうか。

 センターでは、これら全国の物産がその後地場産業としてどう展開して行ったのか、明治の産業化でどのような役割を果たしたのか、など大日本物産図会を種にしてさまざまな研究ができるよう、整備していく計画です。

(実業史研究情報センター長 小出いずみ)


一覧へ戻る