情報資源センターだより

3 絵引(えびき)

『青淵』No.665 2004年8月号掲載|実業史研究情報センター長 小出いずみ

 6月7日に行われた竜門社の総会では山田哲好氏がご講演下さいました。氏は、長年にわたって国文学研究資料館において、青淵翁記念日本実業史博物館構想のために渋沢敬三が収集したコレクションを研究し、見守ってこられた方です。講演内容は秋に本誌に掲載されますので、それまでお待ちいただかなければなりませんが、本日は実業史研究情報センターが山田氏にもご協力いただいて取り組もうと計画している「絵引」の話をいたしましょう。

 渋沢敬三は昭和19年3月7日記とされている「絵引は作れぬものか」という文章に、「字引とやや似かよった意味で、絵引が作れぬものかと考えたのも、もう十何年か前からのことであった」と記しています。絵引の出版は敬三の生前には実現せず、遺言によって昭和40年にようやく『絵巻物による日本常民生活絵引』第一巻が角川書店から刊行されました。

 「絵引」という言葉はおそらく敬三が作り出したもので、もちろん『広辞苑』には載っていません。そこで絵引から「店」の場面の図を次頁に掲載します。小さくて見づらいかもしれませんが、絵巻物の中から常民の生活場面を抜き出して模写し、そこに描かれているものに細かく番号を振って欄外にその名前が書いてあります。各巻末にはその巻に描かれたものの名前が、住居、衣服、食事、調度・施設・技術、資料取得・生業、交通・運搬、交易・交易品、容姿・動作・労働、人生・身分・病、死・埋葬、児童生活、娯楽・遊戯・交際、年中行事、神仏・祭・信仰、動物・植物・自然の十五分野に分けられて記載された索引が付されており、第五巻の最終巻には、索引語の五十音順総索引が用意されています。

 この「店」の場面は鎌倉時代後期のものと推定される「直幹申文」から採られていますが、魚やわらじや薪を一緒に売っているよろず屋は、数は激減したかもしれませんが今でも存在するような商業形態です。それに比べると、現代のスーパーマーケットのように、客が自分で店の中に入り品物を選んで運び支払いを済ませるセルフサービス方式への転換は、鎌倉時代から(あるいはそれよりもっと前から)続いていた店の形態を、画期的に変えてしまうものであった、ということも、この場面からわかります。

絵引

  さて、1937年から1944年にかけて収集されたと推定されている日本実業史博物館準備室旧蔵資料には、錦絵を中心とした視覚的な資料が数千点含まれています。実業史博物館構想は文化文政のころから20世紀始めまでの約100年間、近代化・産業化によって社会が大きく変わった時代を対象としています。この時期にはたとえばモノづくりの面では動力の導入などにより劇的な変革がありました。実業史錦絵はちょうどその変わり目の様子を写しとっています。

 そこでセンターでは、このコレクションを蒐集した渋沢敬三にならい、錦絵から絵引を作成することにしました。山田氏を中心に研究チームを構成し、実業関係の絵を手始めに、何が描かれているか、索引語を付し、最新の画像技術を使ってコンピューターで見たりひいたりできるようにする予定です。

 ところで「絵引」という言葉は敬三の発明ではないか、と書きましたが、実は敬三以前にも似たような企てがありました。それは松平定信の仕事です。

 定信は「予は古き文書、又は画図、古額など写しおくことをたのしむ。此事多き旅行なれど道すがら寺院などの什物とり寄せ、夜などもうつし止めて行きぬ」(『宇下人言』)と書き残しているほど古いものに強い関心を寄せていました。そして、古来の絵に描かれている肖像やものを模写させ、それを肖像、人形服章、文様、宮室、器材、兵器などに分類して『古画類聚』を編纂しました。その序文には、絵を抄写して門類を分けておけば古きを調べる人の役に立つであろうと考えた旨が記されています。『古画類聚』は寛政末年から文化年間半ばに編纂されたと推定されており、古書画・古器物・古武具類の実測原寸図に縮尺図を加えて編纂された『集古十種』の後集ともされています。

 松平定信は模写した絵のうち類似のものを寄せ集めて分類しましたが、敬三は索引という手法を用い、より細部にわたった分析を行いました。敬三が『古画類聚』から影響を受けたかどうかは明らかではありませんが、敬三の仕事も定信に繋がっていくものといえましょう。ご承知のように青淵翁は、東京市養育院が松平定信の残した七分金によって成立したことから松平公を尊敬し、その伝記『楽翁公伝』を著しました。歴史の縦糸は一筋縄でなく織り成されていくようです。

(実業史研究情報センター長 小出いずみ)


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