史料館だより

49 渋沢敬三没後50年

『青淵』No.772 2013(平成25)年7月号

企画展 祭魚洞祭

 今秋、渋沢敬三が世を去って50年を迎えます。敬三は、渋沢栄一の後継者として渋沢家を支え、日銀総裁、大蔵大臣を歴任した経済人でした。一方、学問が好きで、様々な学界を支援したことでも知られています。
 当館では、敬三没後50年を記念し、企画展「祭魚洞祭(さいぎょどうまつり)」を開催します。「祭魚洞」は敬三の号で、獲った魚を並べる獺(かわうそ)の様子が魚を祭るように見えるという故事を、本を買っても並べておくだけの我が身になぞらえてつけられました。獺祭魚(だっさいぎょ)は書物が好きな人を意味する言葉でもあり、学問寄りを自負する敬三らしさを感じさせられる名前です。「祭魚洞祭」は、祭魚洞・渋沢敬三がその人生で出会った場面と、敬三が愛した様々な分野とを垣間見る「祭」という場になることを目指して名付けました。
 没後50年を迎える今年は、敬三関連のコレクションを所蔵する国立民族学博物館など多くの機関で敬三関連の企画が予定されています。敬三の祖父・栄一を伝える当館では、後継者である敬三を知ることで、栄一をさらに理解する機会としていただけるのではないかと考えています。

敬三というひと

敬三 昭和24年8月 撮影:椎名雄 渋沢史料館所蔵
敬三 昭和24年5月8日
撮影:椎名雄 渋沢史料館所蔵

 敬三は、栄一の長男・篤二の長男として明治29年に深川の家で生まれました。父・篤二が廃嫡になったことで、敬三は祖父・栄一の後継者となります。栄一は渋沢家の当主が実業界に身を置くことを望み、動物学者を志していた敬三も祖父の願いを受け入れました。大学を卒業後、敬三は横浜正金銀行でロンドン支店等の勤務を経て、大正15年に第一銀行に入行し、東京貯蓄銀行、澁澤倉庫など栄一と関わりが深い会社や団体の役員に就任しました。
 昭和6年に栄一が逝去すると、敬三は子爵家を襲爵。栄一亡き後の渋沢家を名実ともに支えることは、敬三の役割の大きな1つでした。
 そんな敬三が心を寄せたのは、それぞれの秩序の中で生きる生物の世界や、土地の暮らしぶりが映しだされた文化でした。
 敬三は、自宅で私設研究所「アチックミューゼアム」を主宰。地域が持つ文化とその力に魅せられた敬三の興味は、人々の暮らしを明らかにすることに向けられます。療養先の沼津三津(みと)で出会った膨大な文書を、全て収録して刊行することを目指す整理作業、各地の共同調査や民具収集、農民・漁民らの生活記録刊行などがアチックの仕事の柱となりました。「論文を書くのではない、資料を学界に提供する」態度は、学問に対する敬三の意欲と敬意とを端的に示しています。アチックには、東京だけでなく地方の研究者や農民・漁民など多彩な顔触れが集まります。同人と呼ばれた彼らは、敬三を中心とした緩やかなまとまりのある研究集団になっていました。
 敬三の資料への態度が端的に表れるのは、アチックの活動だけではありません。栄一存命中には、後世に栄一の伝記をつくるための資料収集と事実の経過を示す書類資料からは伝わりきらない栄一の考えや心情を記録することを目的として、口述記録を作成します。その後、栄一の門下生ともいえる財団法人竜門社(当財団の前身)が、栄一に関する記録を集めて膨大な資料集を編む際も同様の方針を立て、物心ともに編纂(へんさん)事業を支えました。
 第一銀行副頭取になった昭和17年、敬三は突然日銀副総裁に指名されます。戦中の厳しい時局の下、翌々年には総裁となり、終戦を迎えます。戦後の幣原(しではら)喜重郎内閣では大蔵大臣を務め、混乱する戦後財政の処理にあたりました。昭和21年、公職追放の指定を受けて辞任すると、自らが制定した財産税として自邸を物納し、創立以来社長を務めた渋沢同族株式会社も財閥解体指定で解散。敬三自身が「ニコボツ」と呼ぶこの時代、敬三は敗戦後の日本各地を歩きます。追放解除の昭和26年以降は、経済界、産業界から求められて国際電信電話株式会社社長や国際商業会議所議長など、戦後日本の財界の人材として役割を果たしました。また、民俗学・民族学をはじめ、魚類研究や霊長類研究など多様な学界を支援したことは、戦後日本の学問の発展につながっています。

祭魚洞祭の顔

 祭魚洞祭のポスターやチラシ用に選んだ写真は、着流しで右手にタバコを持つ敬三の立ち姿です。撮影は書生の椎名雄さん。その後も敬三の近くで写真を撮り続けられた椎名さんがカメラを手にした最初の一枚でもあります。
 奇しくも敬三は当時、公職追放の身でした。栄一の意思を汲んで実業界に生き、渋沢家を支えてきた敬三が、自らの人生を再び選び定めた頃です。
 自宅前で書生に見せた飾らない顔。混沌とした敬三というひとを理解する契機になるのではないかと思います。

祭魚洞祭をたのしむ

 今回の展示に際して、敬三の多様な側面を知っていただくための関連イベントを予定しています。「講座・祭魚洞入門」は、経営史、財政史、外交史、民俗学、魚類学など様々な分野の専門家を講師に迎えて開催します。
 さらに、昭和5年、敬三が自邸に奥三河の花祭一行を招いて公演を行ったことにちなみ、かつてと同じ愛知県東栄町の中在家(なかんぜき)から花祭をお招きすることになりました。
 没後50年を記念して開催する「祭魚洞祭」を、敬三の素顔を知ってたのしむ機会としていただければ幸いです。ご来館をお待ち申し上げます。

(学芸員 永井 美穂)

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