史料館だより

30 ブラジル移民100年 企画展「日本人を南米に発展せしむ 日本人のブラジル移住と渋沢栄一」開催

『青淵』No.715 2008(平成20)年10月号

 今年がブラジル移民100周年ということを、ニュースなどで耳にされた方も多いのではないでしょうか。第1回移民船笠戸丸がブラジルのサントス港に到着して100周年。2008年は、日本・ブラジル両政府によって日本ブラジル交流年として定められ、様々なイベントが行われています。
 日本の経済界を牽引する渋沢栄一が、ブラジル移民事業に関わったことはあまり知られていません。海外への移民のあり方と、移民を送出する制度と機関の必要性について心を配っていた栄一は、ブラジル最初の日本人植民地であるイグアペ植民地を開設した伯剌西爾(ブラジル)拓植株式会社、アマゾンに日本人植民地を拓いた南米拓殖株式会社、移民の教育を目的とする海外植民学校などに関わり、自らの考えを実現するために尽力しました。
 ここでは、10月4日から渋沢史料館で開催の企画展「日本人を南米に発展せしむ 渋沢栄一と日本人のブラジル移住」をご理解いただくために、海外移民に対する渋沢栄一の思い入れについてご紹介いたします。

思ひ入れは大にあるヨ

「海外移民の事に就ては、これと云つて手を附けてやつた事は別にありません。けれども思ひ入れは大にあるヨ」
 これは、昭和5年5月6日に開催された雨夜譚会での渋沢栄一の言葉です。大いにある思い入れとは、どのようなものだったのでしょうか。折しも北米の排日運動が1つのピークを迎える中、栄一が、ブラジル移民と移民事業に携わる人たちに期待と憂慮を抱いて語った言葉から、その思い入れをさぐってみましょう。

転ばぬ先の杖の如くに注意しなければならぬ

 渋沢栄一の憂慮は、ブラジル移民が始まる以前の海外移民のあり方にありました。「海外に出ると云ふことは、私はもう少し出る人が考を定め、考慮を尽して而して出ると云ふことにしたい」という言葉は、移民自体の意識と行動とについて、適切な認識と覚悟とが足りなかったことを指摘するものです。
 更に栄一は、政府、実業界など移民を支え、送り出す側の体制についても言及しました。「其移民の仕事を葭町にある雇人口入事業同様に見たと云ふことは、政事家も御気が付かれなかったか知らぬが、又実業家も甚だ等閑にして居ったのではあるまいか」。栄一自らを含む日本のリーダーたちの、移民事業に対する認識の甘さを認める言葉です。

言忠信行篤敬 雖蛮貊之邦行矣

 渋沢栄一が生涯にわたって拠り所にしていた『論語』に、「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊(ばんぱく)の邦といえども行われん」という一節があります。長男の篤二、嫡孫の敬三の名前の由来となっていることからも、栄一にとって重要な言葉の1つであったことが伺われます。
 この一節について、栄一は『論語講義』で次のように解説しています。―孔子の弟子の子張が、物事の妨げが多くて思い通りにならないときにどうしたらいいかを孔子に尋ねたところ、孔子は「その言を忠信にし、その行いを篤敬にすれば、つまり言行一如誠実重厚ならば、人も我を信じ、我を敬す。たとえ無智蒙昧の夷狄に行ったとしても、事は妨げなしで行うことができる。これに反して、言忠信でなく行いを篤敬にしなければ、人は我を信じず、たとえ故郷であっても事を行うことはできない」とこたえた―。
 栄一は、この一節を海外移民たちに熱心に説き、日本から遠く離れた土地でも敬意を払って誠実に生きることを期待しました。

ジャポネス・ガランチード

 ブラジルには「ジャポネス・ガランチード(日本人は信頼できる)」という言葉があります。農業を発展させ、真面目に生きてきた日本移民に対する尊称です。ブラジル移民100年を経た今日、渋沢栄一の思い入れはブラジルに根付いた移民たちの人生として実っているのかもしれません。
 企画展「日本人を南米に発展せしむ」は、11月24日まで開催します。渋沢栄一が、海外移民について、ブラジル移民に関わるこれらの事業に対して、何を考えどのように関与したかをご紹介いたします。また、栄一が手がけた事業を具体的にご覧いただくことで、ブラジル日本移民史の一端を知っていただければ幸いです。ご来館をお待ち申し上げます。

企画展情報はこちらからご覧ください。

※会期中、講演会とギャラリートークを開催いたします。詳細はお問い合わせ下さい。

(学芸員 永井 美穂)


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