情報資源センターだより

52 新任のご挨拶

『青淵』No.812 2016年11月号|情報資源センター 専門司書 井上さやか

 本年6月より、情報資源センターの司書を勤めております、井上さやかと申します。これまでも、諸資料のアーカイビング・保存・展示などをも含め、利用者と資料を様々な方法で結ぶ司書職を生業としてまいりました。当財団では、微力ながらも情報資源に関わる事業の一端を担わせていただくこととなり、幸いに存じます。よろしくお願い申しあげます。

 さて、長らく準備を進めてまいりましたデジタル版『渋沢栄一伝記資料』(以下『伝記資料』)の、本編テキストのインターネット公開第一弾を近日に控え、最終調整を行っております。これまで、『伝記資料』のデジタル化については、当欄でも様々ご紹介をしてまいりました。デジタル版『伝記資料』における利点のひとつは、膨大なページ数の書籍内を、電子辞書のように容易に検索し、目的のテキストをその場で参照できるという点にあることに、疑いはないでしょう。
 一例として、渋沢栄一と、その孫 尾高鮮之助(1901-1933)のエピソードを取り上げてみます。美術史家である鮮之助 i は、早世したこともあって、これまで栄一との関係性の中で語られてくることはあまりありませんでした。
 ご承知の通り、栄一は1931(昭和6)年11月に亡くなりますが、ちょうど鮮之助は、同年10月から約1年に渡る東南アジアからアフガニスタンに至るアジア美術調査のため離日していました。鮮之助は、栄一逝去の報を家族からの連絡で知ったようで、同年12月の母文子宛の手紙には「母さんのお手紙はまだ子爵が御重態の頃のお手紙ですが、折角の皆さんの御看護の介もなく到頭おなくなりになった由、はじめてサイゴンで承知いたし、...(中略)...出立の前に王子に上って、ゆっくり親しくお目にかゝりお話する事が出来て本当によかったと思ひます。」ii と綴っています。『伝記資料』を捜してみますと、残念ながら手紙にある「お話」が何れの機会の面談を指すのかは詳らかにはなりませんが、鮮之助の飛鳥山邸訪問の予定は「集会日時通知表」に散見されました。
 また『伝記資料』からは、鮮之助の初期研究活動にまつわる興味深い一文を見出すことができました。栄一の日記(『伝記資料』別巻第2p.296、1927(昭和2)年1月21日条)には、祖父を訪ねた鮮之助が「神田鐳蔵氏所蔵ノ浮世絵一覧ノ紹介ヲ請フ」たとありました。神田鐳蔵(1872-1934)は、栄一の知遇を得て公債取引などに携わった実業家として名を馳せると共に、京都の浮世絵商・松木善右衛門から買い上げた浮世絵コレクションを所有していたことでも著名 iii でした。今日でこそ鮮之助は、日本人の美術史家として初めてバーミヤン石窟を調査した人物として知られていますが、若き日の興味、研究対象は浮世絵にありました。関東大震災の前年、洋画家・木村荘八(1893-1958)と共に上野広小路の店を訪れ、そこで目にした勝川春章を端緒に、作品収集もはじめたことを雑誌 iv で語っています。
 美術館も数少なかった昭和初期、個人の所蔵に帰している美術作品にいきあうには、少なからずコネクションが必要でした。幸い鮮之助は、祖父栄一という強力な味方によって、神田家のコレクションにいきつくことがかないました。鮮之助は一体どの浮世絵を見たかったのでしょうか。情報の精査は、ひとまず今後に譲ります。

 主に、渋沢栄一研究、近代経済史研究の土壌において注目されてきた『伝記資料』ですが、このように、(例にあげた鮮之助は栄一の身内であるという贔屓目はありますが)視点をかえれば、明治から昭和にかけての様々な分野においても、利活用可能な情報資源のひとつと成り得るでしょう。
 『伝記資料』は万能ではありません。「材料のみ集めて置く」(『伝記資料』57巻p.709)という意図のうえ収集された資料群であるにせよ、特定の時期に編纂された成果物です。編纂後に発見された未収録の栄一資料もあります。収録資料の原本との比較や、進化し続ける研究成果を常に新たに取り入れることが、次の研究のためには必要不可欠です。デジタル版『伝記資料』は、これらを念頭に置いた公開でもあらねばならないでしょう。しかしそのためにも、まず『伝記資料』そのものが、場所や時間に制限されることなく誰にでも開かれ、目的に応じて(あるいは目的以外の意図せぬ形で)くまなく利活用し得る情報資源となることが前提であることに違いありません。
 デジタル版『伝記資料』は、まず本編から段階を追っての公開となりますが、書籍版にとどまらぬ進化の可能性も含んだ情報資源として、見守っていただければ幸いです。

 当財団には、司書をはじめ、学芸員、アーカイブズの専門家がおります。文化情報資源を主軸とした一機関に、これだけ専門職が揃う組織は日本では未だ数が少ないと言ってもよいでしょう。
 もちろんそれぞれが担う役割と専門性は異なります。しかしながら、分野を超え、異なる視点をもって互いに刺激し協力することで、予期せぬ化学反応から面白い結果が得られる可能性があるのではないかと考えています。これから自身の専門性を追求すると共に、それぞれの専門職とも協力をし、より魅力的な情報資源を生み出し、蓄積し、発信していきたいと思います。

i  田中淳著『太陽と「仁丹」:一九一二年の自画像群・そしてアジアのなかの「仁丹」』(ブリュッケ、2012)
ii 尾高邦雄編『亡き鮮之助を偲ぶ』(私家版、1935)
iii 『神田鐳蔵氏所蔵浮世風俗絵展観目録』(史学会、1927)、久世夏奈子「『国華』にみる古渡の中国絵画」(『日本研究』47号、国際日本文化研究センター、2013)
iv 尾高鮮之助「浮世絵が好きになるまで」(『蜂雀』1号、蜂雀社、1928)


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