史料館だより

41 渋沢栄一とワグネル 〜日独交流150周年に際して〜

『青淵』No.748 2011(平成23)年7月号


ワグネル(植田豊橘編
『ワグネル伝』より)

 今からちょうど150年前の1861年、日本とドイツ(プロイセン)との間に修好通商条約が締結されました。それ以降、両国では様々な分野で交流がなされてきました。そして本年は「日独交流150周年」として、各地で様々な記念事業が催されているようです。
  さて今回は渋沢栄一と関係のあるドイツ人で、ゴットフリート・ワグネルをご紹介します。ワグネルは、明治前期に活躍した「お雇い外国人」で、≪日本近代窯業の父≫とも呼ばれています。
  ワグネルは1831年、ドイツのハノーバーに生まれます。ゲッティンゲン大学を卒業後、フランス、スイス留学を経て、1868年に来日しました。ワグネルはまず長崎で石鹸(せっけん)製造所を設立しますが失敗。1870年には佐賀藩の委嘱をうけて有田で釉薬(ゆうやく)調合の技術を指導し、また同年に大学南校(現在の東京大学)予科教師となりました。その後は、1872年に東校の物理学と化学の教師、75年に東京開成学校の理化学教師、さらに文部省の製作学校教師を兼任、また78年には京都府舎密(せいみ)局で陶磁器と化学の指導、81年に東京大学理学部の製造化学教師、84年に東京職工学校の製造化学教師、86年には同校の陶器玻璃(はり)工科主任となるなど、この経歴を見ても、近代日本における化学分野、とりわけ窯業の発展に大きな貢献をしたことが分かります。
 渋沢栄一とワグネルが最初に交流をしたのは、1873年に明治政府がウィーンで開催の万国博覧会に参加をする時だったと思われます。大蔵省三等出仕だった渋沢は参加の前年に「澳国博覧会御用掛」として養蚕関係の出品準備に関わりました。一方、ワグネルも同「御用掛」となり、日本の出品物収集と技術指導の顧問として尽力し、参加事業を成功へと導いたのです。この時に渋沢とワグネルが直接的に交流をした記録は確認できませんが、スタッフとして互いに顔を合わせていたのではないでしょうか。
  その後、1890年に渋沢はワグネルと共同で「旭焼組合」を立ち上げます。「旭焼(あさひやき)」とは、ワグネルが創始した窯業の技法で、器に絵を描いてから釉薬をかけて焼成する「釉下彩(ゆうかさい)技法」を用いた新しい陶器でした。
 渋沢は、ワグネルが創始した「旭焼」を、将来有望な事業であると考え、同年に浅野総一郎らと共に「旭焼組合」を組織しました。渋沢史料館には当時の様子を示す資料が残されており、それが写真の「旭焼製造予算」と「旭焼製造所予算」です。これらは東京深川区東元町に同製造所を設立する際の予算書類であり、建物や窯、製造器械、職工給与を始めとした諸費用が記され、またワグネルの助手で、同製造所の監督を務めた植田豊橘(とよきち)の名前も見られます。


「旭焼製造予算」

「旭焼製造所予算」

 しかし「旭焼組合」の経営は、その後軌道に乗ることなく、1896年に解散し、そして92年にはワグネルが東京の自宅で亡くなります。
 渋沢栄一とワグネルの共同事業であった同組合は残念ながら、成功しませんでしたが、ワグネルの思いや様々な技術は、多くの教え子たちに受け継がれていったのでした。

(学芸員 関根 仁)

※「旭焼組合」の関係資料は、『渋沢栄一伝記資料』第11巻にも収録されています。ご参照ください。『渋沢栄一伝記資料』は渋沢史料館閲覧コーナーでご覧いただけます。


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