トピック詳細
古河市兵衛の鉱山事業への支援
足尾鉱山組合
『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年-四十二年 / 1部 実業・経済 / 4章 鉱業 / 1節 銅 / 1款 足尾鉱山組合 【第15巻 p.365-366】
1875(明治8)年3月6日(35歳)
是日栄一、大蔵卿大隈重信に書翰を送り、古河市兵衛の鉱山事業に関して依頼する所あり。
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[ 解説 ]  小野組糸店を主催していた古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ、1832-1903)は1874(明治7)年11月の小野組破綻・閉店により、秋田の鉱山を含む自らの財産を抵当として差し出しました。小野組と深いかかわりのあった第一国立銀行も大きな打撃を受けましたが、「古河市兵衛がいたく信用を重んじて資産を隠蔽せず、進んで之を提供」したことにも助けられ、連鎖倒産の危機は回避されました(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.84、『第一銀行五十年史稿 巻二』より)。
 『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.128-131には再起した古河市兵衛と鉱山について栄一が語った内容が以下のように記されています。

「[前略]この時に小野組は遂に破産して仕舞つた。翁は一方の棟梁であつた丈に相当な金も持つて居つたが、それは一切主家に預けてあつたから受取ることも出来ず、翁も亦それを強ひて取らうとせず、さつぱり断念して、所謂裸一貫で小野組を去つたのである。
 無一物で出た翁は、明治八年に亦無一物で自家の業を創めた。その時私にも相談に来て、鉱山業が一番面白いから、自分は一生をこのことに投ずる積りだと語り、その第一着手として、新潟県下の草倉銅山に手を下した。固より古河翁は無資本であるから、この時第一銀行から一万円程も融通したやうに覚えて居るが、幸ひにもこの銅山が的中して、次第に運命を開拓するやうになつた。
[中略]翁が畢生の事業であつた足尾銅山には、私も種々なる関係を持つて居つた。[中略] 最初は損を仕続けて、更に算盤はとれなかつたが、そんな事に頓着したり挫折するやうな人でないから、行ける所まで行つて見ると云ふ決心でやつて居た。その中に段々良くなつて、終に今日の大成功を見ることが出来たのであつた。[中略]
 古河翁の鉱山に対する知識は不思議なものだと思つて、今も人に物語るのであるが、元来翁は新聞も余り読まぬ学問の無い人で法律などの話をしても、国の法律も県の命令も皆混同して等しくお上の掟だ服従しなければならぬと云ふ風で、其点から云へば文盲な不条理な考へ方をする人であつて、斯かる事柄に関しては、記憶も頗る悪かつたが、これに引きかへて、鉱山の事になると実に記憶が良い、まるで人間が違ふやうに思はれた。其当時、月に一遍は私の所へ山の模様を話しに来たが、足尾銅山が頭脳の中に畳み込まれてある様に見えた。学問はせぬが鉱山の事は技師以上であつた。昔の書物に、或人が経書の講義には居睡りしたが、六韜三略になると席を乗り出したとある。それと同様に古河翁は或事柄に就ては殆ど無感覚であつたが、鉱山に対しては特殊な感覚を有ち、その能力は非凡なものであつた、而して鞏固な自信力をも具へてゐて、唯一心に之に従事し、あらゆる鉱山に手を出した。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.129-131掲載 『古河市兵衛翁伝』(五日会, 1926.04)より)

 『渋沢栄一伝記資料』第15巻p.365-366には、渋沢栄一と古河との関係を示す資料として、古河市兵衛への援助を依頼する栄一の書簡三点が紹介されています。書簡の一つは小野組破綻から4ヵ月後の日付で「尤古河鉱山之事ハ何卒早く御下知奉願度候」としるされた大隈重信(おおくま・しげのぶ、1838-1922)宛のもの、残りの二つは小野組破綻以前の吉田清成(よしだ・きよなり、1845-1891)宛のもので、以下の注釈が附されています。

「○上掲栄一書翰ハ小野組破綻以前、古河市兵衛ニツキ吉田清成ニ援助ヲ請願セルモノニシテ栄一ト古河トノ関係ヲ示ス資料トシテココニ掲グ。小野組破綻ニ就イテハ本資料「第一国立銀行」明治七年十一月二十日ノ条(第四巻第八三頁以下)参照。」
(『渋沢栄一伝記資料』第15巻p.366収載)

[ 参考リンク ]

足尾銅山略年表〔随想舎〕

足尾銅山〔土木学会図書館|旧蔵写真館〕

渋沢ゆかりの地

ゆかりの地
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古河市兵衛の鉱山事業への支援
足尾鉱山組合
1875(明治8)年3月6日(35歳)
是日栄一、大蔵卿大隈重信に書翰を送り、古河市兵衛の鉱山事業に関して依頼する所あり。
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[ 解説 ]
 小野組糸店を主催していた古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ、1832-1903)は1874(明治7)年11月の小野組破綻・閉店により、秋田の鉱山を含む自らの財産を抵当として差し出しました。小野組と深いかかわりのあった第一国立銀行も大きな打撃を受けましたが、「古河市兵衛がいたく信用を重んじて資産を隠蔽せず、進んで之を提供」したことにも助けられ、連鎖倒産の危機は回避されました(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.84、『第一銀行五十年史稿 巻二』より)。
 『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.128-131には再起した古河市兵衛と鉱山について栄一が語った内容が以下のように記されています。

「[前略]この時に小野組は遂に破産して仕舞つた。翁は一方の棟梁であつた丈に相当な金も持つて居つたが、それは一切主家に預けてあつたから受取ることも出来ず、翁も亦それを強ひて取らうとせず、さつぱり断念して、所謂裸一貫で小野組を去つたのである。
 無一物で出た翁は、明治八年に亦無一物で自家の業を創めた。その時私にも相談に来て、鉱山業が一番面白いから、自分は一生をこのことに投ずる積りだと語り、その第一着手として、新潟県下の草倉銅山に手を下した。固より古河翁は無資本であるから、この時第一銀行から一万円程も融通したやうに覚えて居るが、幸ひにもこの銅山が的中して、次第に運命を開拓するやうになつた。
[中略]翁が畢生の事業であつた足尾銅山には、私も種々なる関係を持つて居つた。[中略] 最初は損を仕続けて、更に算盤はとれなかつたが、そんな事に頓着したり挫折するやうな人でないから、行ける所まで行つて見ると云ふ決心でやつて居た。その中に段々良くなつて、終に今日の大成功を見ることが出来たのであつた。[中略]
 古河翁の鉱山に対する知識は不思議なものだと思つて、今も人に物語るのであるが、元来翁は新聞も余り読まぬ学問の無い人で法律などの話をしても、国の法律も県の命令も皆混同して等しくお上の掟だ服従しなければならぬと云ふ風で、其点から云へば文盲な不条理な考へ方をする人であつて、斯かる事柄に関しては、記憶も頗る悪かつたが、これに引きかへて、鉱山の事になると実に記憶が良い、まるで人間が違ふやうに思はれた。其当時、月に一遍は私の所へ山の模様を話しに来たが、足尾銅山が頭脳の中に畳み込まれてある様に見えた。学問はせぬが鉱山の事は技師以上であつた。昔の書物に、或人が経書の講義には居睡りしたが、六韜三略になると席を乗り出したとある。それと同様に古河翁は或事柄に就ては殆ど無感覚であつたが、鉱山に対しては特殊な感覚を有ち、その能力は非凡なものであつた、而して鞏固な自信力をも具へてゐて、唯一心に之に従事し、あらゆる鉱山に手を出した。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.129-131掲載 『古河市兵衛翁伝』(五日会, 1926.04)より)

 『渋沢栄一伝記資料』第15巻p.365-366には、渋沢栄一と古河との関係を示す資料として、古河市兵衛への援助を依頼する栄一の書簡三点が紹介されています。書簡の一つは小野組破綻から4ヵ月後の日付で「尤古河鉱山之事ハ何卒早く御下知奉願度候」としるされた大隈重信(おおくま・しげのぶ、1838-1922)宛のもの、残りの二つは小野組破綻以前の吉田清成(よしだ・きよなり、1845-1891)宛のもので、以下の注釈が附されています。

「○上掲栄一書翰ハ小野組破綻以前、古河市兵衛ニツキ吉田清成ニ援助ヲ請願セルモノニシテ栄一ト古河トノ関係ヲ示ス資料トシテココニ掲グ。小野組破綻ニ就イテハ本資料「第一国立銀行」明治七年十一月二十日ノ条(第四巻第八三頁以下)参照。」
(『渋沢栄一伝記資料』第15巻p.366収載)

[ 参考リンク ]

足尾銅山略年表〔随想舎〕

足尾銅山〔土木学会図書館|旧蔵写真館〕


出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年-四十二年 / 1部 実業・経済 / 4章 鉱業 / 1節 銅 / 1款 足尾鉱山組合 【第15巻 p.365-366】