
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.93 古河鉱業会社
画像名:同足尾銅山
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市麹町区八重洲町
一 目的事業 鉱業及伸銅並に骸炭製造業
一 創立年月日 明治三十八年四月一日
一 資本金 五百万円
一 壱箇年製出高
銅 弐千万斤 銅線 約千万斤 石炭 五拾万噸 骸炭 弐万噸
一 鉱業所及販売店
足尾鉱業所 院内鉱業所 阿仁鉱業所 不老倉鉱業所 永松鉱業所 大島鉱業所 水沢鉱業所 草倉鉱業所 久根鉱業所 西部鉱業所 日光電気精銅所 深川骸炭所 大阪販売店 門司販売店 上海販売店
一 沿革
当社はもと古河市兵衛氏の個人事業なりしが、氏の歿後明治三十八年に至り、事業の鞏固を計らん為め、古河一家を以て法人組織に改めたるものなり、抑々故古河市兵衛氏が始めて鉱業に指を染めたるは、明治八年越後国草倉銅山の採掘にあり、次て明治十年足尾銅山を買収し、十八年阿仁及院内銀山等の払下けを受け、爾来一利を挙くれは一鉱山を開掘し、益々其事業を拡張し、終に我邦銅山王として名声天下に普ねく、其事業を継承したる現在当社の鉱区は、其数七十を超へ面積実に参千万坪、年々の産額は弐千万斤を算するに至れり、当社は銅、銀の外銅線、骸炭、石炭等の販売を業とす、皆自家の採掘製造に係るものなりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は故古河市兵衛氏が小野組にありし時代より其交親善にして、氏が足尾銅山を買収するや、明治十三年請に応して出資者の一人となり、以て協同経営の任に当れり、而して其事業盛大に赴くに従ひ、持分の全部を氏に譲渡し脱退せるも、引続き其業務の経営に助力せられたり、
一 現任役員
社長 古河虎之助 理事長 木村長七 理事 近藤陸三郎 理事 岡崎邦輔
一 所在地 東京市麹町区八重洲町
一 目的事業 鉱業及伸銅並に骸炭製造業
一 創立年月日 明治三十八年四月一日
一 資本金 五百万円
一 壱箇年製出高
銅 弐千万斤 銅線 約千万斤 石炭 五拾万噸 骸炭 弐万噸
一 鉱業所及販売店
足尾鉱業所 院内鉱業所 阿仁鉱業所 不老倉鉱業所 永松鉱業所 大島鉱業所 水沢鉱業所 草倉鉱業所 久根鉱業所 西部鉱業所 日光電気精銅所 深川骸炭所 大阪販売店 門司販売店 上海販売店
一 沿革
当社はもと古河市兵衛氏の個人事業なりしが、氏の歿後明治三十八年に至り、事業の鞏固を計らん為め、古河一家を以て法人組織に改めたるものなり、抑々故古河市兵衛氏が始めて鉱業に指を染めたるは、明治八年越後国草倉銅山の採掘にあり、次て明治十年足尾銅山を買収し、十八年阿仁及院内銀山等の払下けを受け、爾来一利を挙くれは一鉱山を開掘し、益々其事業を拡張し、終に我邦銅山王として名声天下に普ねく、其事業を継承したる現在当社の鉱区は、其数七十を超へ面積実に参千万坪、年々の産額は弐千万斤を算するに至れり、当社は銅、銀の外銅線、骸炭、石炭等の販売を業とす、皆自家の採掘製造に係るものなりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は故古河市兵衛氏が小野組にありし時代より其交親善にして、氏が足尾銅山を買収するや、明治十三年請に応して出資者の一人となり、以て協同経営の任に当れり、而して其事業盛大に赴くに従ひ、持分の全部を氏に譲渡し脱退せるも、引続き其業務の経営に助力せられたり、
一 現任役員
社長 古河虎之助 理事長 木村長七 理事 近藤陸三郎 理事 岡崎邦輔
