事業名:大阪堂島米商会所
大阪米穀取引所
大阪市
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の取引所(大阪市堂島浜通1丁目)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.174 大阪堂島米穀取引所
画像名:大阪米穀取引所
文献に記載されている解説文等:
大阪市堂島浜通一丁目
 堂島米穀市場の起原は遠く今を距る二百六十余年の昔に在り。其梗概を叙せんに、寛永、正保の頃大川町に居住せし淀屋与右衛門なる者家業として西国筋諸侯の積登米を引受け、代銀を国元又は江戸屋敷に仕送りしに剏まり、之を町人の蔵元と称せり。降つて二十年寛文の頃に至り蔵元を営む者数人に増加せしが、淀屋其牛耳を執りしを以て、市中の米商人は多く淀屋に集まりて米売買を為し、自然価格の高下を競ふ、是に於て米相場の事起れり。後元禄九年の頃今の堂島新地開発せられ。翌年より米商人協商して此地に移り米売買を始めたりしが、是れ即ち堂島米相場の濫觴なりと云ふ。
 此後幕府時代に於て幾多の変遷ありしが、維新後二年二月に至り、堂島正米商売の外石建米売買は禁止せられたり。三年十二月武富辰吉、磯野小右衛門氏等主として再興を計り、空米相場を排して、難波御蔵の摂津米を建米と為し、定期現物取引の方法を以て、四年四月一日より堂島米会所の復興開業するを得たりき。九年十一月法律の結果堂島米商会所と改め、二十六年又現称に改め、営業年限も亦数次継続を許可せられたり。
 三十七年十一月に及び、多年経営せられし新築工事落成して従来久しく分離せられ居りし事務所及び市場は遂に茲に一屋の内に設備せらるゝに至れり。数百年の歴史を有する同所は今や益々新時代の商業機関として活動しつゝあり。
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渋沢ゆかりの地

事業名:大阪堂島米商会所
大阪米穀取引所
大阪市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の取引所(大阪市堂島浜通1丁目)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.174 大阪堂島米穀取引所
画像名:
大阪米穀取引所
文献に記載されている解説文等:
大阪市堂島浜通一丁目
 堂島米穀市場の起原は遠く今を距る二百六十余年の昔に在り。其梗概を叙せんに、寛永、正保の頃大川町に居住せし淀屋与右衛門なる者家業として西国筋諸侯の積登米を引受け、代銀を国元又は江戸屋敷に仕送りしに剏まり、之を町人の蔵元と称せり。降つて二十年寛文の頃に至り蔵元を営む者数人に増加せしが、淀屋其牛耳を執りしを以て、市中の米商人は多く淀屋に集まりて米売買を為し、自然価格の高下を競ふ、是に於て米相場の事起れり。後元禄九年の頃今の堂島新地開発せられ。翌年より米商人協商して此地に移り米売買を始めたりしが、是れ即ち堂島米相場の濫觴なりと云ふ。
 此後幕府時代に於て幾多の変遷ありしが、維新後二年二月に至り、堂島正米商売の外石建米売買は禁止せられたり。三年十二月武富辰吉、磯野小右衛門氏等主として再興を計り、空米相場を排して、難波御蔵の摂津米を建米と為し、定期現物取引の方法を以て、四年四月一日より堂島米会所の復興開業するを得たりき。九年十一月法律の結果堂島米商会所と改め、二十六年又現称に改め、営業年限も亦数次継続を許可せられたり。
 三十七年十一月に及び、多年経営せられし新築工事落成して従来久しく分離せられ居りし事務所及び市場は遂に茲に一屋の内に設備せらるゝに至れり。数百年の歴史を有する同所は今や益々新時代の商業機関として活動しつゝあり。
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