事業名:大阪紡績株式会社
大阪紡績株式会社
大阪市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは三軒家公園の「近代紡績工業発祥の地碑」近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.22 大阪紡績株式会社
画像名:大阪紡績株式会社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 大阪市西区三軒家上の町五百五十一番屋敷
一 目的事業 綿糸綿布の製造販売
一 創立年月 明治十三年十月
一 資本金 五百万円(内払込高四百六万弐千五百円)
一 積立金 百四拾四万五千余円
一 紡績錘数 拾参万四千八百五拾八錘
一 撚糸錘数 七千七百五拾弐錘
一 汽織機台数 四千六百拾弐台
一 壱箇年原棉消費高 四百六拾八万七千弐百貫匁
一 壱箇年製造高 綿糸九万梱 綿布壱千八百万反
一 使用人員 壱万千九百八拾九人
一 壱箇年純利益金 六拾四万弐千百九拾円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在地 清国直隷省天津日本租界旭街二百〇八号信昌洋行
一 工場所在地 三軒家工場 四貫島工場 松島工場 伏見工場 川の石工場
一 沿革
本邦に於ける洋式紡織の工業たるや維新前後の創設に係るものなきにあらさるも、其業固より微にして振はす、明治十二年の頃官民倶に漸く斯業振作の要を感し、官設又は官府の勧誘保護に係る一二紡績所の創設を見るに至りしも、規模狭小未た以て斯業の発展を計るに足らす、是に於てか青淵先生其他二三の有志胥謀り一大紡績工場を設立せんとし、其順序方法を討議し、当時滞英中の山辺丈夫氏(現社長)をして英国紡績業の実況を研究せしめ、遂に明治十三年十月資本金弐拾五万円を以て当会社組織の議を決し、最初水利に藉るへき計画を立て各地に就き水源を求めしも、水力運輸両便の地に乏しく、不得止水工の望を絶ち汽工の方針を樹て、翌十五年夏地を大阪市西区三軒家に相し、工場の建築に著手し、十六年七月に至りて工を竣へ業務を開始せり、而して当初の錘数は壱万五千錘に過きさりしが、製品良好にして忽ち江湖の声価を博し、朞年ならすして工場拡張の必要を来し、十七年資本金を五拾六万円、十九年六拾万円とし、二十年には更に倍加して百弐拾万円とせり、此時に当り我邦紡績業の発展と共に内地産綿花の供給に不足を告け価格の昇騰を見るに至りしかは、当社は青淵先生等の提案により率先して支那綿輸入の途を講し、二十二年更に進んて印度綿花の実地を調査し、始めて同国産綿花の輸入を企て斯業に一新生面を開き、終に今日の盛況を見るに至れり、又紡績業の織布業兼営に利あるを察し、翌二十三年大阪織布会社を買収し綿布製織業を開始し事業益々順調に向ひしも、二十五年二月不幸祝融の一大災厄に遇ひ、工場の大半は烏有に帰し、為めに業務に一頓挫を来したるも、鋭意之が復旧に尽瘁し、其後の経営宜きに適ひしかは再ひ旧に倍するの盛況を呈し、資本金は数次に増加せられ以て今日あるに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
当社の創立首唱者たる青淵先生は、会社成立後常に相談役として業務経営の枢機に参劃し、昨四十二年諸会社の事業と関係を絶たるるに至る迄其任に当られたり、夫の支那棉印度棉輸入等の開始は先生の提案に基くものなり、
一 現任役員
取締役社長 山辺丈夫  常務取締役 阿部房次郎  取締役 熊谷辰太郎  取締役 田附政次郎  取締役 肥塚源次郎  取締役 阿部彦太郎  取締役 大川英太郎  監査役 藤井善助  監査役 岡村勝正
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渋沢ゆかりの地

事業名:大阪紡績株式会社
大阪紡績株式会社
大阪市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは三軒家公園の「近代紡績工業発祥の地碑」近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.22 大阪紡績株式会社
画像名:
大阪紡績株式会社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 大阪市西区三軒家上の町五百五十一番屋敷
一 目的事業 綿糸綿布の製造販売
一 創立年月 明治十三年十月
一 資本金 五百万円(内払込高四百六万弐千五百円)
一 積立金 百四拾四万五千余円
一 紡績錘数 拾参万四千八百五拾八錘
一 撚糸錘数 七千七百五拾弐錘
一 汽織機台数 四千六百拾弐台
一 壱箇年原棉消費高 四百六拾八万七千弐百貫匁
一 壱箇年製造高 綿糸九万梱 綿布壱千八百万反
一 使用人員 壱万千九百八拾九人
一 壱箇年純利益金 六拾四万弐千百九拾円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在地 清国直隷省天津日本租界旭街二百〇八号信昌洋行
一 工場所在地 三軒家工場 四貫島工場 松島工場 伏見工場 川の石工場
一 沿革
本邦に於ける洋式紡織の工業たるや維新前後の創設に係るものなきにあらさるも、其業固より微にして振はす、明治十二年の頃官民倶に漸く斯業振作の要を感し、官設又は官府の勧誘保護に係る一二紡績所の創設を見るに至りしも、規模狭小未た以て斯業の発展を計るに足らす、是に於てか青淵先生其他二三の有志胥謀り一大紡績工場を設立せんとし、其順序方法を討議し、当時滞英中の山辺丈夫氏(現社長)をして英国紡績業の実況を研究せしめ、遂に明治十三年十月資本金弐拾五万円を以て当会社組織の議を決し、最初水利に藉るへき計画を立て各地に就き水源を求めしも、水力運輸両便の地に乏しく、不得止水工の望を絶ち汽工の方針を樹て、翌十五年夏地を大阪市西区三軒家に相し、工場の建築に著手し、十六年七月に至りて工を竣へ業務を開始せり、而して当初の錘数は壱万五千錘に過きさりしが、製品良好にして忽ち江湖の声価を博し、朞年ならすして工場拡張の必要を来し、十七年資本金を五拾六万円、十九年六拾万円とし、二十年には更に倍加して百弐拾万円とせり、此時に当り我邦紡績業の発展と共に内地産綿花の供給に不足を告け価格の昇騰を見るに至りしかは、当社は青淵先生等の提案により率先して支那綿輸入の途を講し、二十二年更に進んて印度綿花の実地を調査し、始めて同国産綿花の輸入を企て斯業に一新生面を開き、終に今日の盛況を見るに至れり、又紡績業の織布業兼営に利あるを察し、翌二十三年大阪織布会社を買収し綿布製織業を開始し事業益々順調に向ひしも、二十五年二月不幸祝融の一大災厄に遇ひ、工場の大半は烏有に帰し、為めに業務に一頓挫を来したるも、鋭意之が復旧に尽瘁し、其後の経営宜きに適ひしかは再ひ旧に倍するの盛況を呈し、資本金は数次に増加せられ以て今日あるに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
当社の創立首唱者たる青淵先生は、会社成立後常に相談役として業務経営の枢機に参劃し、昨四十二年諸会社の事業と関係を絶たるるに至る迄其任に当られたり、夫の支那棉印度棉輸入等の開始は先生の提案に基くものなり、
一 現任役員
取締役社長 山辺丈夫  常務取締役 阿部房次郎  取締役 熊谷辰太郎  取締役 田附政次郎  取締役 肥塚源次郎  取締役 阿部彦太郎  取締役 大川英太郎  監査役 藤井善助  監査役 岡村勝正
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