事業名:大阪紡績株式会社
大阪紡績株式会社
大阪市
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは三軒家公園の「近代紡績工業発祥の地碑」近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.365 大阪紡績株式会社
画像名:大阪紡績株式会社
文献に記載されている解説文等:
大阪市西区三軒家
 同会社は明治十五年の創立にして、渋沢栄一、藤田伝三郎氏等の発意に係り、現在の資本金三百七十五万円、積立金一百二十四万円を算し、工場の錘数十四万四千一百四錘、織機四千一百三十八台を有す。営業部は大阪市西区三軒家に置き、工場は同所を始め、同松島、同四貫島、京都伏見、伊予川の石に都合五箇所を有す。実に東洋第一の最古歴史を有し、創立後既に二十有六年の星霜を経たる紡績会社なり。其間現任社長山辺丈夫氏は数回欧米に渡航し、実地の視察研究を遂げ、之を規模計画に実現し、加ふるに交々技師を彼地に派遣し、斯業進歩発達に遅れざらしめんことに勉め、棉糸に棉布に秩序的歩武を進め、熱心鋭意尽瘁せる結果、資本の増加と工場増築とをなすこと前後再三、社運漸次隆盛に赴き、斯業の指導者として与つて力ありと謂ふ可し。茲に同社が斯業の為に貢献したる二三の要点を挙げんか。我邦紡績業の有利なることを世人に知悉せしめたるは、実に明治十九年にして、爾後我国争うて斯業の勃興するあり、将に漸く発達の緒に着かんとするに際し、憂慮せられたるものは原料棉花の供給にありしかば、遂に明治二十年より引続き二三年間人を派出して支那、印度及び米国より棉花の輸入を開始し、原料に於て内顧の患なきに至らしめたり、是れ其一。されば此供給の充盈を得たると共に、専ら製糸の業を進むるに従ひ、輸入棉糸の多額を占めたる孟買糸と頡頏し、遂に明治二十三年其輸入を杜絶せしむるを得たり、是れ其二。又夙に製品の良好を以て、声価を博したる同社の棉布は漸次拡張し、明治二十三四年以来海軍被服用品に採用せられ、従来一に供給を仰ぎたる外品の輸入を防遏し、而も率先清韓両国に向つて棉糸、棉布の輸出を図りたる等是れ其三なり。
 同社は斯く斯業界に於て率先経営辛酸を嘗めたるが、今や一箇年間の製糸高四千三百万斤(一千二百六十万円)、製布高六千七百万碼(七百五十万円)の製造力を有し、清韓両国に輸出する棉布も亦一箇年間約三千万碼(三百五六十万円)に垂んたるの趨勢を示したれば、勢ひ社業の進運に伴ひ、一新機軸の工場を起して製造力を増大し、遂に今日の盛運を示すに至りたり。
重役諸氏
 相談役 男爵 渋沢栄一
 取締役社長 山辺丈夫
 常務取締役 阿部房次郎
 取締役 広瀬満正
 取締役 宅徳平
 取締役 熊谷辰太郎
 取締役 田附政次郎
 監査役 渋谷正十郎
 監査役 肥塚源次郎
 監査役 藤井善助
(現任社長山辺丈夫氏は紡績聯合会の会頭にして、嚮に実業家の模範として賞勲局より勅定の緑綬褒章を賜ひ、其善行を表彰せられたり)
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渋沢ゆかりの地

事業名:大阪紡績株式会社
大阪紡績株式会社
大阪市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは三軒家公園の「近代紡績工業発祥の地碑」近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.365 大阪紡績株式会社
画像名:
大阪紡績株式会社
文献に記載されている解説文等:
大阪市西区三軒家
 同会社は明治十五年の創立にして、渋沢栄一、藤田伝三郎氏等の発意に係り、現在の資本金三百七十五万円、積立金一百二十四万円を算し、工場の錘数十四万四千一百四錘、織機四千一百三十八台を有す。営業部は大阪市西区三軒家に置き、工場は同所を始め、同松島、同四貫島、京都伏見、伊予川の石に都合五箇所を有す。実に東洋第一の最古歴史を有し、創立後既に二十有六年の星霜を経たる紡績会社なり。其間現任社長山辺丈夫氏は数回欧米に渡航し、実地の視察研究を遂げ、之を規模計画に実現し、加ふるに交々技師を彼地に派遣し、斯業進歩発達に遅れざらしめんことに勉め、棉糸に棉布に秩序的歩武を進め、熱心鋭意尽瘁せる結果、資本の増加と工場増築とをなすこと前後再三、社運漸次隆盛に赴き、斯業の指導者として与つて力ありと謂ふ可し。茲に同社が斯業の為に貢献したる二三の要点を挙げんか。我邦紡績業の有利なることを世人に知悉せしめたるは、実に明治十九年にして、爾後我国争うて斯業の勃興するあり、将に漸く発達の緒に着かんとするに際し、憂慮せられたるものは原料棉花の供給にありしかば、遂に明治二十年より引続き二三年間人を派出して支那、印度及び米国より棉花の輸入を開始し、原料に於て内顧の患なきに至らしめたり、是れ其一。されば此供給の充盈を得たると共に、専ら製糸の業を進むるに従ひ、輸入棉糸の多額を占めたる孟買糸と頡頏し、遂に明治二十三年其輸入を杜絶せしむるを得たり、是れ其二。又夙に製品の良好を以て、声価を博したる同社の棉布は漸次拡張し、明治二十三四年以来海軍被服用品に採用せられ、従来一に供給を仰ぎたる外品の輸入を防遏し、而も率先清韓両国に向つて棉糸、棉布の輸出を図りたる等是れ其三なり。
 同社は斯く斯業界に於て率先経営辛酸を嘗めたるが、今や一箇年間の製糸高四千三百万斤(一千二百六十万円)、製布高六千七百万碼(七百五十万円)の製造力を有し、清韓両国に輸出する棉布も亦一箇年間約三千万碼(三百五六十万円)に垂んたるの趨勢を示したれば、勢ひ社業の進運に伴ひ、一新機軸の工場を起して製造力を増大し、遂に今日の盛運を示すに至りたり。
重役諸氏
 相談役 男爵 渋沢栄一
 取締役社長 山辺丈夫
 常務取締役 阿部房次郎
 取締役 広瀬満正
 取締役 宅徳平
 取締役 熊谷辰太郎
 取締役 田附政次郎
 監査役 渋谷正十郎
 監査役 肥塚源次郎
 監査役 藤井善助
(現任社長山辺丈夫氏は紡績聯合会の会頭にして、嚮に実業家の模範として賞勲局より勅定の緑綬褒章を賜ひ、其善行を表彰せられたり)
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