事業名:汽車製造株式会社
汽車製造合資会社大阪本社及工場
大阪市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは汽車製造合資会社跡地近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.65 汽車製造合資会社
画像名:汽車製造合資会社大阪本社及工場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 大阪市西区島屋町
一 目的事業 鉄道用機関車、客車貨車其他鋳冶に属する諸機械器具の製造、販売及車輌貸付
一 創立年月日 明治二十九年九月七日
一 資本金 七拾四万九千四百円
一 積立金 参拾万六千五百余円
一 壱箇年製造高 弐百拾弐万六千余円
一 壱箇年利益金 拾弐万五百余円
一 配当率 年壱割
一 支店所在地 東京市本所区錦糸町
一 沿革
当社は明治二十九年九月、子爵井上勝氏の主唱により、青淵先生及男爵岩崎弥之助氏等の賛成を得て、毛利前田両家を始め東京大阪の有力者之が出資者となり、資本金六拾四万円の合資組織を以て創立したるものにして、本社及工場を大阪西成郡川北村大字島屋に建て、明治三十二年七月を以て業務を開始し、次て資本金を九拾万円に増加せり、明治三十四年優先出資金弐拾六万参千六百円を増資し、平岡工場を買収し之を東京支店と称し、一層業務を拡張し成績益々揚れり、是に於てか明治三十七八両年に於ける純益金中より優先出資全部を返還し、且先是退社員を生したるとにより、三十九年以降資本金額を減して七拾四万九千四百円とせり、今其製造力を挙くれは、大阪本社にありては一箇年間機関車三十輌、鋼橋桁約八千噸、客貨車九百輌、東京支店にありては一箇年間客車百輌、貨車千三百輌の製造力を有せり、而して輓近鉄道事業の発達に伴ひ本社製品の需要は益々多きを加へつつありと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の設立に関し助力斡旋する所少なからす、又率先して出資者の一人となり、爾来或は業務担当社員として、或は監査役として、本社経営に尽力せられしが、昨四十二年古希の齢を機とし直接の関係を絶たれたり、
一 現任役員
業務担当社員社長 子爵井上勝  監査役 瓜生震  監査役 田辺貞吉
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渋沢ゆかりの地

事業名:汽車製造株式会社
汽車製造合資会社大阪本社及工場
大阪市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは汽車製造合資会社跡地近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.65 汽車製造合資会社
画像名:
汽車製造合資会社大阪本社及工場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 大阪市西区島屋町
一 目的事業 鉄道用機関車、客車貨車其他鋳冶に属する諸機械器具の製造、販売及車輌貸付
一 創立年月日 明治二十九年九月七日
一 資本金 七拾四万九千四百円
一 積立金 参拾万六千五百余円
一 壱箇年製造高 弐百拾弐万六千余円
一 壱箇年利益金 拾弐万五百余円
一 配当率 年壱割
一 支店所在地 東京市本所区錦糸町
一 沿革
当社は明治二十九年九月、子爵井上勝氏の主唱により、青淵先生及男爵岩崎弥之助氏等の賛成を得て、毛利前田両家を始め東京大阪の有力者之が出資者となり、資本金六拾四万円の合資組織を以て創立したるものにして、本社及工場を大阪西成郡川北村大字島屋に建て、明治三十二年七月を以て業務を開始し、次て資本金を九拾万円に増加せり、明治三十四年優先出資金弐拾六万参千六百円を増資し、平岡工場を買収し之を東京支店と称し、一層業務を拡張し成績益々揚れり、是に於てか明治三十七八両年に於ける純益金中より優先出資全部を返還し、且先是退社員を生したるとにより、三十九年以降資本金額を減して七拾四万九千四百円とせり、今其製造力を挙くれは、大阪本社にありては一箇年間機関車三十輌、鋼橋桁約八千噸、客貨車九百輌、東京支店にありては一箇年間客車百輌、貨車千三百輌の製造力を有せり、而して輓近鉄道事業の発達に伴ひ本社製品の需要は益々多きを加へつつありと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の設立に関し助力斡旋する所少なからす、又率先して出資者の一人となり、爾来或は業務担当社員として、或は監査役として、本社経営に尽力せられしが、昨四十二年古希の齢を機とし直接の関係を絶たれたり、
一 現任役員
業務担当社員社長 子爵井上勝  監査役 瓜生震  監査役 田辺貞吉
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