[ 解説 ]
徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、1837-1913)の弟、昭武(とくがわ・あきたけ、1953-1910)の随員として渋沢栄一(当時篤太夫)がフランスに滞在している間、日本では大政奉還があり、慶喜は蟄居謹慎の身の上となりました。1868(明治元)年に帰国した栄一は、整理や報告を終えた後、残りの生涯を旧主のもとで送る決意をしました。12月19日、静岡に到着した栄一は油屋に投宿。同月23日、栄一は慶喜が蟄居している宝台院を訪ねて旧主に拝謁、帰国の報告をしています。
その後、栄一は静岡藩仕官を命じられ、翌1869(明治2)年の1月には宝台院近くの旧代官屋敷に商法会所(後の常平倉。銀行と商社の業務を行う合本組織)を開き、さらに養蚕の普及など地域の農業振興にも力を尽くしました。
やがて慶喜は謹慎をとかれて代官屋敷に転居、それに伴い代官屋敷を役宅としていた栄一は近隣の教覚寺に移転、商法会所は後に呉服町へと移転しました。同年10月、明治政府から大蔵省勤務の強い要請を受けた栄一は静岡に心を残しながらも東京に移り、慶喜もまた1897(明治30)年には東京に居を移しています。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年~明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 3章 静岡藩仕官時代 【第2巻 p.70-93】