静岡宝台院油絵(中島鍬次郎筆)
静岡市
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは宝台院を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.41 
画像名:静岡宝台院油絵(中島鍬次郎筆)
文献に記載されている解説文等:
[P.041] 徳川昭武の各国巡訪が終ったのは明治元年の七月頃で、続いて昭武の留学の手筈を調えていたが、維新の報が伝わり、やがて昭武は公式に帰国を命ぜられた。栄一は昭武に随って帰国し、その年の十一月三日に横浜に着いた。江戸で父市郎右衛門に会い、郷里にも行ったが、直ちに静岡の慶喜の許へ昭武からの手紙を持って行った。将軍家は亀之助(家達)が継ぎ慶喜は宝台院に蟄居していた。栄一は昭武の許へ慶喜の様子を報告に戻る考えであったが、勘定組頭を命ぜられて静岡に留めおかれた。水戸へ戻ると昭武が栄一を離さず、反って家臣の反目を買うであろう。慶喜はそれを避けさせたのである。
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渋沢ゆかりの地

静岡宝台院油絵(中島鍬次郎筆)
静岡市
画像1
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ピンは宝台院を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.41 
画像名:
静岡宝台院油絵(中島鍬次郎筆)
文献に記載されている解説文等:
[P.041] 徳川昭武の各国巡訪が終ったのは明治元年の七月頃で、続いて昭武の留学の手筈を調えていたが、維新の報が伝わり、やがて昭武は公式に帰国を命ぜられた。栄一は昭武に随って帰国し、その年の十一月三日に横浜に着いた。江戸で父市郎右衛門に会い、郷里にも行ったが、直ちに静岡の慶喜の許へ昭武からの手紙を持って行った。将軍家は亀之助(家達)が継ぎ慶喜は宝台院に蟄居していた。栄一は昭武の許へ慶喜の様子を報告に戻る考えであったが、勘定組頭を命ぜられて静岡に留めおかれた。水戸へ戻ると昭武が栄一を離さず、反って家臣の反目を買うであろう。慶喜はそれを避けさせたのである。
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