当時の静岡の地図
静岡市
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは駿府城公園を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.43 
画像名:当時の静岡の地図
文献に記載されている解説文等:
[P.043] 維新後の復興に新政府は太政官札を発行して、諸大名に貸与した。一万石について一万両であったから静岡藩の割附高は七十万両であったが、実際は五十三万両が貸与された。これを十三ヵ年で返済する仕法であった。栄一はこの金を単に政費に消費する事をせず、民間からも資金を集めて株式組織とし、産業を興すことを進言して明治二年の初めに静岡商法会所が成立した。合本主義と言われたこの組織(株式会社)は栄一が欧州で見て来た所で、その実践の第一歩であった。静岡商法会所は、銀行と商社の混交した業務を行った。後、常平倉と改名したのは、朝廷からの拝借金で商業を営むのを遠慮した為である。明治二年二月、栄一は郷里から妻子を呼んで静岡に居を定めた。郷里を出てから六年目である。又、この当時、篤太夫を篤太郎と改めていた。
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渋沢ゆかりの地

当時の静岡の地図
静岡市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは駿府城公園を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.43 
画像名:
当時の静岡の地図
文献に記載されている解説文等:
[P.043] 維新後の復興に新政府は太政官札を発行して、諸大名に貸与した。一万石について一万両であったから静岡藩の割附高は七十万両であったが、実際は五十三万両が貸与された。これを十三ヵ年で返済する仕法であった。栄一はこの金を単に政費に消費する事をせず、民間からも資金を集めて株式組織とし、産業を興すことを進言して明治二年の初めに静岡商法会所が成立した。合本主義と言われたこの組織(株式会社)は栄一が欧州で見て来た所で、その実践の第一歩であった。静岡商法会所は、銀行と商社の混交した業務を行った。後、常平倉と改名したのは、朝廷からの拝借金で商業を営むのを遠慮した為である。明治二年二月、栄一は郷里から妻子を呼んで静岡に居を定めた。郷里を出てから六年目である。又、この当時、篤太夫を篤太郎と改めていた。
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