事業名:浅野セメント株式会社
浅野セメント合資会社門司分工場[2/2]
北九州市門司区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の工場(白木崎)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.261 浅野セメント合資会社
画像名:浅野セメント合資会社門司分工場[2/2]
文献に記載されている解説文等:
東京市深川区清住町
 浅野セメント合資会社は我邦ポートランド、セメント製造業の嚆矢なり。抑々斯業は政府が民間に模範を示さんが為に、今を距ること三十六年前大政維新の後百般の事業革新の秋に際し、明治四年工部省工作局の創設したるものにして、経営十余年得失相償はず、遂に十五年を以て廃業することゝなれり。此時に方り、浅野総一郎氏は石炭の供給者として此工場に出入し、其事業の梗概を知悉せるを以て、翌十六年工場全部の借用を出願し、許可を得て製造を試むること僅に一年、忽ち其大に為すべきを暁り、十七年再び官に請うて工場の払下を受け、浅野工場と称し、鋭意製造の改良に従事し、夙夜黽勉、敢えて少しも懈らず、翌十八年に至り、事業大に緒に就き面目を一新し、其製造も一箇月二千樽以上を算するに至れり。爾来諸工業の勃興と倶に、セメントの需用は益々加はり、一箇月三千余樽を製出すれども、尚ほ其需用に応ずる能はず。十九年規模の拡張を図り、技師両名を欧洲に派し、二十一年帰朝せるを以て、其研究せし学術と実験とに徴し、購入し来る器械に由り、彼我を折衷して製造を試みしに、成績顕著にして一箇年六万樽を製出し、其品質舶来品を凌駕するに至れり。是に於てか浅野セメントの名声内外に揚り、需用年々増加し、毎に不足を告ぐるを以て、二十五年門司市に分工場を新設せり。会々二十七八年の戦役に際し、諸工業は沈衰の悲境に陥りしと雖、日夜製造を持続して製品を貯へ、戦後経営の発展に伴ひ、多大の供給をなしゝが、需用の数量意料の外に出で、忽ち供給不足を告ぐるに至れり。当時浅野氏は欧米に遊び、親しく各国のセメント業を視察し、帰朝後渋沢栄一、安田善次郎、大川平三郎、尾高幸五郎氏等を社員とし、浅野工場を改めて合資会社を組織し、出資額を金八十万円と定め、三十一年二月登記を経て浅野セメント合資会社と改称し、氏自ら社長の任に当りて業務を監理し、本分両工場の拡張と同時に製造の改善を施し、大に製造力を累進せしめ、一箇年優に五十万樽余を製出するに至れり。然れども氏は尚ほ之に安んぜず、着々事業の発達を図り、三十五年技師を米国に派遣し、最近成効の新器械を購入し、翌年より本工場に使用せしが、成績頗る良好、産額亦大に増加せり。
 明治三十七八年の戦捷後はセメントを要する各種の事業一時に興起し、海外需用も頓に増加せるを以て、本分両工場に大拡張を計画し、四十年技師を再び米国に派して新式器械を購入せしめ、又一方には旧商法の合資会社組織を変更して、新商法に由れる合資会社の組織に改め、出資額を金五百万円に増加し、拡張工事に着手せり。今や工事略々竣るを以て、両工場の製産力は一躍して一箇年二百万樽以上に達し、品質の優等なると産額の多きとは、実に東洋に冠絶する所なり。要するに社長浅野氏が絶群の精力を傾注し、二十五年一日の如く、孜々経営の然らしむる所にして、啻に外品の輸入を防遏するのみならず、販路海の内外に亘り、其国家に裨益すること、固に鮮少ならざるなり。
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渋沢ゆかりの地

事業名:浅野セメント株式会社
浅野セメント合資会社門司分工場[2/2]
北九州市門司区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の工場(白木崎)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.261 浅野セメント合資会社
画像名:
浅野セメント合資会社門司分工場[2/2]
文献に記載されている解説文等:
東京市深川区清住町
 浅野セメント合資会社は我邦ポートランド、セメント製造業の嚆矢なり。抑々斯業は政府が民間に模範を示さんが為に、今を距ること三十六年前大政維新の後百般の事業革新の秋に際し、明治四年工部省工作局の創設したるものにして、経営十余年得失相償はず、遂に十五年を以て廃業することゝなれり。此時に方り、浅野総一郎氏は石炭の供給者として此工場に出入し、其事業の梗概を知悉せるを以て、翌十六年工場全部の借用を出願し、許可を得て製造を試むること僅に一年、忽ち其大に為すべきを暁り、十七年再び官に請うて工場の払下を受け、浅野工場と称し、鋭意製造の改良に従事し、夙夜黽勉、敢えて少しも懈らず、翌十八年に至り、事業大に緒に就き面目を一新し、其製造も一箇月二千樽以上を算するに至れり。爾来諸工業の勃興と倶に、セメントの需用は益々加はり、一箇月三千余樽を製出すれども、尚ほ其需用に応ずる能はず。十九年規模の拡張を図り、技師両名を欧洲に派し、二十一年帰朝せるを以て、其研究せし学術と実験とに徴し、購入し来る器械に由り、彼我を折衷して製造を試みしに、成績顕著にして一箇年六万樽を製出し、其品質舶来品を凌駕するに至れり。是に於てか浅野セメントの名声内外に揚り、需用年々増加し、毎に不足を告ぐるを以て、二十五年門司市に分工場を新設せり。会々二十七八年の戦役に際し、諸工業は沈衰の悲境に陥りしと雖、日夜製造を持続して製品を貯へ、戦後経営の発展に伴ひ、多大の供給をなしゝが、需用の数量意料の外に出で、忽ち供給不足を告ぐるに至れり。当時浅野氏は欧米に遊び、親しく各国のセメント業を視察し、帰朝後渋沢栄一、安田善次郎、大川平三郎、尾高幸五郎氏等を社員とし、浅野工場を改めて合資会社を組織し、出資額を金八十万円と定め、三十一年二月登記を経て浅野セメント合資会社と改称し、氏自ら社長の任に当りて業務を監理し、本分両工場の拡張と同時に製造の改善を施し、大に製造力を累進せしめ、一箇年優に五十万樽余を製出するに至れり。然れども氏は尚ほ之に安んぜず、着々事業の発達を図り、三十五年技師を米国に派遣し、最近成効の新器械を購入し、翌年より本工場に使用せしが、成績頗る良好、産額亦大に増加せり。
 明治三十七八年の戦捷後はセメントを要する各種の事業一時に興起し、海外需用も頓に増加せるを以て、本分両工場に大拡張を計画し、四十年技師を再び米国に派して新式器械を購入せしめ、又一方には旧商法の合資会社組織を変更して、新商法に由れる合資会社の組織に改め、出資額を金五百万円に増加し、拡張工事に着手せり。今や工事略々竣るを以て、両工場の製産力は一躍して一箇年二百万樽以上に達し、品質の優等なると産額の多きとは、実に東洋に冠絶する所なり。要するに社長浅野氏が絶群の精力を傾注し、二十五年一日の如く、孜々経営の然らしむる所にして、啻に外品の輸入を防遏するのみならず、販路海の内外に亘り、其国家に裨益すること、固に鮮少ならざるなり。
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