事業名:横浜正金銀行
横浜正金銀行本店営業所
横浜市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の横浜正金銀行(横浜市南仲通)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.92 横浜正金銀行
画像名:本店営業所
文献に記載されている解説文等:
横浜市南仲通
 頭取 男爵 高橋是清
 取締役 相馬永胤
 取締役 園田孝吉
 取締役 木村利右衛門
 取締役 若尾逸平
 同兼総支配人 山川勇木
 取締役 小田切万寿之助
 取締役 子爵 三島弥太郎
 取締役 川島忠之助
 取締役 戸次兵吉
創立並に資本金
 明治十二年十一月中村道太氏等二十三名発起人となり、国立銀行条例に拠りて銀貨資本三百万円を以つて横浜正金銀行と称する正金取引の一銀行を組織し、海外為替荷為替の業を創め、専ら内外貿易の間に介して金融調理の事に任ぜんことを出願し、同年十二月政府の許可を得、翌年二月二十八日を以て開業したり。資本金は最初三百万円にして、内三分の一は政府之を提供したるものなり。然るに爾来業務の次第に増進発展するに従ひ、資本の不足を感じたれば、二十年三月三百万円を増加して六百万円と為し、二十九年三月六百万円を増加して一千二百万円と為し、次いで三十二年九月に及びては更に一千二百万円を増加して、二千四百万円(払込済)と為し、以て現今に至れり。
支店及び出張所
 支店及び出張所の開設は先づ十三年六月中神戸に支店を設け、内国に於ける事業の基礎を定め、更に海外に向つて欧米其他の要地に出張員を派遣し、取引上の要務を処弁せしめたりしが、十七年九月英京倫敦に支店を設けたるを始とし、漸次仏国里昻、米国紐育、桑港等に支店、出張所を開設し、続いで東洋各地に及べり、
 内地支店  東京 大阪 神戸 長崎
 海外支店  英国倫敦 仏国里昻 桑港 布哇 印度孟買
       英領香港 清国上海 漢口 天津 北京 牛荘 大連 奉天
 海外出張所  米国紐育 清国芝罘 旅順口 遼陽 鉄嶺 安東県 長春
条例発布
 本行は最初国立銀行条例に準拠して創立せられたれども、其事業、性質、範囲等内地に於ける普通銀行に相異なる所あり、一般条例を以て律すべからざるものあるを以て、明治二十年七月新に横浜正金銀行条例の制定発布あり、是に於てか始めて本行業務の性質を明確ならしめたり。次いで政府は監理官を設け、日本銀行の例に倣ひて本行業務を監理せり。
銀行券発行及び軍票整理
 本行の事業漸く拡張するに及びて、支那地方に於て一覧払手形発行の允許を得て、明治三十五年十一月天津に於て発行せるを始とし、漸次上海及び牛荘各地に於て弗銀及び両銀引換の手形を発行せり。三十七年日露戦役の起るに際し、一覧払手形は軍隊使用の軍票と共に満洲各地に流通使用せられ、著しく清国商民の信用を博せり。戦役後政府は軍票未償還高一千五百二十五万余円を本行に引継ぎ、(一方に引換基金を交附し、為替作用に由り之を回収す)、是れが整理を命ぜらるゝと同時に、従来の一覧払手形の称呼を改めて銀行券と為し、三十九年九月勅令を以て之が規定を発布せられ、爾後軍票の後継者として流通し、漸く満洲に於ける通貨の一たるに至れり。
 之を要するに正金銀行は創立以来茲に二十九年、上は政府の命に由りて国家理財上の一機関に任じ、下は商賈の為に海外為替に関する金融の便利を計りて漸次其業務発展し、今や為替銀行として世界に其名声を博し、行運益々盛大なり。
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渋沢ゆかりの地

事業名:横浜正金銀行
横浜正金銀行本店営業所
横浜市
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の横浜正金銀行(横浜市南仲通)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.92 横浜正金銀行
画像名:
本店営業所
文献に記載されている解説文等:
横浜市南仲通
 頭取 男爵 高橋是清
 取締役 相馬永胤
 取締役 園田孝吉
 取締役 木村利右衛門
 取締役 若尾逸平
 同兼総支配人 山川勇木
 取締役 小田切万寿之助
 取締役 子爵 三島弥太郎
 取締役 川島忠之助
 取締役 戸次兵吉
創立並に資本金
 明治十二年十一月中村道太氏等二十三名発起人となり、国立銀行条例に拠りて銀貨資本三百万円を以つて横浜正金銀行と称する正金取引の一銀行を組織し、海外為替荷為替の業を創め、専ら内外貿易の間に介して金融調理の事に任ぜんことを出願し、同年十二月政府の許可を得、翌年二月二十八日を以て開業したり。資本金は最初三百万円にして、内三分の一は政府之を提供したるものなり。然るに爾来業務の次第に増進発展するに従ひ、資本の不足を感じたれば、二十年三月三百万円を増加して六百万円と為し、二十九年三月六百万円を増加して一千二百万円と為し、次いで三十二年九月に及びては更に一千二百万円を増加して、二千四百万円(払込済)と為し、以て現今に至れり。
支店及び出張所
 支店及び出張所の開設は先づ十三年六月中神戸に支店を設け、内国に於ける事業の基礎を定め、更に海外に向つて欧米其他の要地に出張員を派遣し、取引上の要務を処弁せしめたりしが、十七年九月英京倫敦に支店を設けたるを始とし、漸次仏国里昻、米国紐育、桑港等に支店、出張所を開設し、続いで東洋各地に及べり、
 内地支店  東京 大阪 神戸 長崎
 海外支店  英国倫敦 仏国里昻 桑港 布哇 印度孟買
       英領香港 清国上海 漢口 天津 北京 牛荘 大連 奉天
 海外出張所  米国紐育 清国芝罘 旅順口 遼陽 鉄嶺 安東県 長春
条例発布
 本行は最初国立銀行条例に準拠して創立せられたれども、其事業、性質、範囲等内地に於ける普通銀行に相異なる所あり、一般条例を以て律すべからざるものあるを以て、明治二十年七月新に横浜正金銀行条例の制定発布あり、是に於てか始めて本行業務の性質を明確ならしめたり。次いで政府は監理官を設け、日本銀行の例に倣ひて本行業務を監理せり。
銀行券発行及び軍票整理
 本行の事業漸く拡張するに及びて、支那地方に於て一覧払手形発行の允許を得て、明治三十五年十一月天津に於て発行せるを始とし、漸次上海及び牛荘各地に於て弗銀及び両銀引換の手形を発行せり。三十七年日露戦役の起るに際し、一覧払手形は軍隊使用の軍票と共に満洲各地に流通使用せられ、著しく清国商民の信用を博せり。戦役後政府は軍票未償還高一千五百二十五万余円を本行に引継ぎ、(一方に引換基金を交附し、為替作用に由り之を回収す)、是れが整理を命ぜらるゝと同時に、従来の一覧払手形の称呼を改めて銀行券と為し、三十九年九月勅令を以て之が規定を発布せられ、爾後軍票の後継者として流通し、漸く満洲に於ける通貨の一たるに至れり。
 之を要するに正金銀行は創立以来茲に二十九年、上は政府の命に由りて国家理財上の一機関に任じ、下は商賈の為に海外為替に関する金融の便利を計りて漸次其業務発展し、今や為替銀行として世界に其名声を博し、行運益々盛大なり。
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