事業名:中外物価新報・中外商業新報
中外商業新報社
中央区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の中外商業新報社(日本橋区北島1丁目36番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.125 中外商業新報社
画像名:中外商業新報社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区北島町一丁目三十六番地
一 創立年月日 明治九年十二月二日
一 出張所 大阪市東区横堀一丁目二十七番地  横浜市弁天通五丁目
一 沿革
中外商業新報は始め物価新報と称し明治九年十二月二日創刊に係る、当時我経済界は尚ほ頗る幼稚の境に在り、内外の機関概ね整備せす、乃ち経済界の進歩発展に資し、兼て当業者の資料に供せんが為め、物価の報道を主たる目的とし、添ゆるに経済上の重要事項を網羅せり、最初は毎週一回刊行し、明治十年一月より五日一回と改め、十三年一月より更に四日一回とし、十五年より毎週三回とし、十八年七月一日を以て日刊新聞に改む、更に二十二年一月中外商業新報と改題し、之と同時に其所載事項を拡張し、経済財政及政治に関する中外一切の事項を論評報道し斯界唯一の日刊新聞と為す、其経営は最初木村清四郎氏之を主宰し、拮据今日の隆運あるに至りし基礎を築き、次て明治三十年末氏の日本銀行に入るに及ひ之を合資会社組織に改め、故斎藤修一郎氏入りて社長と為り其経営を嗣く之を明治三十年九月とす、幾何もなく野崎広太氏之に代はり、木村斎藤両氏経営の後を承け更に幾多の設備を施し明治三十七年六月合資会社を解散し、野崎氏事業の一切を承継し個人事業として経営し以て今日に至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
当社は木村清四郎氏経営の当時より青淵先生の指導を受くること浅からす、後野崎氏之を経営するに及ひても亦常に忠言助語吝まれす、当社今日の隆運ある蓋し先生に負ふ所なしとせさるなり、
一 持主 野崎広太
画像2

渋沢ゆかりの地

事業名:中外物価新報・中外商業新報
中外商業新報社
中央区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の中外商業新報社(日本橋区北島1丁目36番地)周辺を示す。
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.125 中外商業新報社
画像名:
中外商業新報社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区北島町一丁目三十六番地
一 創立年月日 明治九年十二月二日
一 出張所 大阪市東区横堀一丁目二十七番地  横浜市弁天通五丁目
一 沿革
中外商業新報は始め物価新報と称し明治九年十二月二日創刊に係る、当時我経済界は尚ほ頗る幼稚の境に在り、内外の機関概ね整備せす、乃ち経済界の進歩発展に資し、兼て当業者の資料に供せんが為め、物価の報道を主たる目的とし、添ゆるに経済上の重要事項を網羅せり、最初は毎週一回刊行し、明治十年一月より五日一回と改め、十三年一月より更に四日一回とし、十五年より毎週三回とし、十八年七月一日を以て日刊新聞に改む、更に二十二年一月中外商業新報と改題し、之と同時に其所載事項を拡張し、経済財政及政治に関する中外一切の事項を論評報道し斯界唯一の日刊新聞と為す、其経営は最初木村清四郎氏之を主宰し、拮据今日の隆運あるに至りし基礎を築き、次て明治三十年末氏の日本銀行に入るに及ひ之を合資会社組織に改め、故斎藤修一郎氏入りて社長と為り其経営を嗣く之を明治三十年九月とす、幾何もなく野崎広太氏之に代はり、木村斎藤両氏経営の後を承け更に幾多の設備を施し明治三十七年六月合資会社を解散し、野崎氏事業の一切を承継し個人事業として経営し以て今日に至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
当社は木村清四郎氏経営の当時より青淵先生の指導を受くること浅からす、後野崎氏之を経営するに及ひても亦常に忠言助語吝まれす、当社今日の隆運ある蓋し先生に負ふ所なしとせさるなり、
一 持主 野崎広太
画像2