事業名:東京株式取引所 付.東京取引所
東京株式取引所
中央区
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の東京証券取引所の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.170 株式会社東京株式取引所
画像名:東京株式取引所
文献に記載されている解説文等:
東京市日本橋区兜町
 同取引所は明治十一年五月の創立にして、本邦に於ける株式取引所の嚆矢なり。是より先き明治七年株式取引所条例の制定ありしと雖、時機未だ熟せずして、市場の開設を見るに至らざりしが、翌十年国立銀行各地に起り、銀行紙幣の発行に対する保証用として公債証書の需要漸く盛んに、一般社会も亦頻りに公債を需求するに至りしを以て、茲に始めて世人は有価証券売買取引に関する公開市場の必要を感ずるに至れり。
 然るに当時の条例は時宜に適せざるものありしかば、渋沢栄一、小松彰、益田孝、三井養之助氏等の有力者九十五名相謀りて一方には改正の意見を具申し、一方には資本金二十万円を以て株式取引所を設立したり、是れ即ち本所の濫觴なりとす。
 開業の当初専ら取引せられたるものは新旧及び秩禄公債の三種に過ぎず。会社株券の市場に上りしものは当所株式を以て先登と為す、実に同年七月十五日の事なり。次いで金禄、起業両公債並に兜町及び蛎殻町両米商会所株式、第一国立銀行株式をも売買するに至りしが、株券の取引は頗る振はず、各種公債独り盛んに行はれたり。即ち明治十一年六月より十二月に至る七箇月間の売買出来高は公債額面二千六百五十六万五千四百円に対し、諸株式は僅に二百五十三株に過ぎざりしと云ふ、以て当時の状況を知るべきなり。翌十二年に及びては商界の形勢漸く変遷の兆を顕はし、公債株式の売買日々に増加して、殊に同年十月金銀貨の売買を開始せし以来、市場は益々活気を呈するに至れり。然るに十三年五月金銀貨売買禁止令出でゝより、形勢一変、有価証券の取引頗る隆盛と為れり。
 爾来年々多少の浮沈あり、条例も亦改正追加せられしこと一再に止まらず。殊に十九年九月の頃夫のブールス制設立の風説は大に影響を及ぼし、斯界に殆ど一種の恐慌を与へたりき。斯くて二十年五月新定取引所条例発布せられ、旧条例に由りて設立せられたる各取引所は、其営業満期に至り廃滅すべきことゝ為れり。是れ実に一大打撃なりき。
 是に於て斯界の物論盛んに起りしが、東京に於ては時の頭取河野敏鎌氏は営業期限の延長を稟請し、政府亦譲歩する所あり、幸に二十年十月延期の議允許せられしが、新条例に遵拠して設立せし十箇所の取引所中僅に神戸、佐賀のみ実際に開業せしと雖、本所を首とし 其他は皆前途の危険を慮れると、且つ実際上種種の障碍の為とに由りて営業せざりき。次いで政府も調査研究する所あり、二十六年三月現行法発布せられ、多年経済界に蟠りし一大問題も遂に解決せられ、取引所の動揺も亦全く沈静するに至れり。此際本取引所は新に定欵及び営業細則の改正を為し、同時に資本金を三十万円に増額し、翌二十九年二月には更に六十万円と為し、三十六年六月には又一百二十五万円に増資せり。然るに三十五年六月又勅令の発布あり、有価証券定期取引の限月三箇月を二箇月に短縮せられしかば、物議再び大に興り、市場亦其害を蒙りしに、八月に至り限月復旧せられたり。而して日露戦役後市場大に活動し、本所亦見る所あり、三十九年三月資本金を四百万円に、四十年三月更に一千二百万円に増額せり。
理事長 中野武営
理事 伊藤幹一
理事 中島行孝
理事 江口駒之助
理事 松岡弁
監査役 三枝守富
監査役 小布施新三郎
監査役 黒川庄次郎
監査役 織田昇次郎
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渋沢ゆかりの地

事業名:東京株式取引所 付.東京取引所
東京株式取引所
中央区
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の東京証券取引所の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.170 株式会社東京株式取引所
画像名:
東京株式取引所
文献に記載されている解説文等:
東京市日本橋区兜町
 同取引所は明治十一年五月の創立にして、本邦に於ける株式取引所の嚆矢なり。是より先き明治七年株式取引所条例の制定ありしと雖、時機未だ熟せずして、市場の開設を見るに至らざりしが、翌十年国立銀行各地に起り、銀行紙幣の発行に対する保証用として公債証書の需要漸く盛んに、一般社会も亦頻りに公債を需求するに至りしを以て、茲に始めて世人は有価証券売買取引に関する公開市場の必要を感ずるに至れり。
 然るに当時の条例は時宜に適せざるものありしかば、渋沢栄一、小松彰、益田孝、三井養之助氏等の有力者九十五名相謀りて一方には改正の意見を具申し、一方には資本金二十万円を以て株式取引所を設立したり、是れ即ち本所の濫觴なりとす。
 開業の当初専ら取引せられたるものは新旧及び秩禄公債の三種に過ぎず。会社株券の市場に上りしものは当所株式を以て先登と為す、実に同年七月十五日の事なり。次いで金禄、起業両公債並に兜町及び蛎殻町両米商会所株式、第一国立銀行株式をも売買するに至りしが、株券の取引は頗る振はず、各種公債独り盛んに行はれたり。即ち明治十一年六月より十二月に至る七箇月間の売買出来高は公債額面二千六百五十六万五千四百円に対し、諸株式は僅に二百五十三株に過ぎざりしと云ふ、以て当時の状況を知るべきなり。翌十二年に及びては商界の形勢漸く変遷の兆を顕はし、公債株式の売買日々に増加して、殊に同年十月金銀貨の売買を開始せし以来、市場は益々活気を呈するに至れり。然るに十三年五月金銀貨売買禁止令出でゝより、形勢一変、有価証券の取引頗る隆盛と為れり。
 爾来年々多少の浮沈あり、条例も亦改正追加せられしこと一再に止まらず。殊に十九年九月の頃夫のブールス制設立の風説は大に影響を及ぼし、斯界に殆ど一種の恐慌を与へたりき。斯くて二十年五月新定取引所条例発布せられ、旧条例に由りて設立せられたる各取引所は、其営業満期に至り廃滅すべきことゝ為れり。是れ実に一大打撃なりき。
 是に於て斯界の物論盛んに起りしが、東京に於ては時の頭取河野敏鎌氏は営業期限の延長を稟請し、政府亦譲歩する所あり、幸に二十年十月延期の議允許せられしが、新条例に遵拠して設立せし十箇所の取引所中僅に神戸、佐賀のみ実際に開業せしと雖、本所を首とし 其他は皆前途の危険を慮れると、且つ実際上種種の障碍の為とに由りて営業せざりき。次いで政府も調査研究する所あり、二十六年三月現行法発布せられ、多年経済界に蟠りし一大問題も遂に解決せられ、取引所の動揺も亦全く沈静するに至れり。此際本取引所は新に定欵及び営業細則の改正を為し、同時に資本金を三十万円に増額し、翌二十九年二月には更に六十万円と為し、三十六年六月には又一百二十五万円に増資せり。然るに三十五年六月又勅令の発布あり、有価証券定期取引の限月三箇月を二箇月に短縮せられしかば、物議再び大に興り、市場亦其害を蒙りしに、八月に至り限月復旧せられたり。而して日露戦役後市場大に活動し、本所亦見る所あり、三十九年三月資本金を四百万円に、四十年三月更に一千二百万円に増額せり。
理事長 中野武営
理事 伊藤幹一
理事 中島行孝
理事 江口駒之助
理事 松岡弁
監査役 三枝守富
監査役 小布施新三郎
監査役 黒川庄次郎
監査役 織田昇次郎
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