事業名:東京株式取引所 付.東京取引所
東京株式取引所市場
中央区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の東京証券取引所の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.16 東京株式取引所
画像名:東京株式取引所市場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区兜町四、六番地
一 目的事業 内外国債、地方債証券、及ひ諸種有価証券の売買取引
一 創立年月日 明治十一年五月十五日
一 資本金 壱千弐百万円(内払込高八百万円)
一 積立金 五拾七万千四百九拾五円
一 壱箇年売買出来高
   直取引 公債八百七拾五万八百円  社債弐千八百円  株式百五拾参万四千壱百株
   定期取引 公債拾六万千円  株式九百四拾九万壱百株
一 壱箇年利益金 九拾壱万五千六百七拾壱円
一 配当率 年壱割五分
一 沿革
東京株式取引所は、明治十一年五月青淵先生、及渋沢喜作、福地源一郎、木村正幹、深川亮蔵、小松彰、益田孝、小室信夫、三井養之助、同武之助、中島行孝、大倉喜八郎、今村清之助、田中平八、岡本善七、小林吟次郎、三野村利助等の諸氏九十五名胥謀り資本金弐拾万円を以て設立したるものにして、実に本邦に於ける株式取引所の嚆矢なりとす、先是明治四五年の交、取引所問題大蔵省の議に上るや、先生当時同省に在り之が討議研究を為し、各国の実例に考へ、刻下の事情に察し、以て之が公許の巳む可らさるを主張せり、幸に政府は其議を容れ、明治七年第百七号布告を以て株式取引所条例を制定し、爾後之が設立を公許することとなれり、然り而して該条例は尚ほ多少不備の点ありしを以て、明治十一年五月布告第八号により之が改正を施したり、東京株式取引所は即ち此改正条例により始て完全に設立せられ、翌六月一日より業務を開始せるものにして、其営業目的は専ら内外国の国債、地方債証券及諸種有価証券の売買取引を媒介するにあり、当所開業の当時は纔かに新旧及秩禄公債等二三種の取引行はれたるに過きさりしが、後時運の進歩と共に会社株券等の市場に現はるるもの夥多なるに至りしを以て、明治二十九年二月資本を増加して六拾万円と為し、次て三十年六月に至り更に之を百二十五万円に増加せり、降て日露戦役後に至り、企業熱の勃興と共に株式熱亦旺盛を極め其市場に現はるる各種株式は百五十種の多きに達し、公債社債の売買亦四五十種に垂んとするに至りしを以て、更に資本増加の必要を認め、明治三十九年三月に其総額を四百万円に、翌四十年三月更に之を壱千弐百万円に増加せり、明治十一年五月僅かに弐拾万円の資本を以て設立せられ、新旧及秩禄公債等二三種の売買を為せるに過きさりしもの、僅々三十年間にして其資本総額は六十倍に達し、各種有価証券の取引に上るもの七十倍に達せるは、また以て長足の進歩と云ふ可し、
一 当所と青淵先生との関係
青淵先生は、前述せるが如く当所設立の発起人にして、又実に本邦取引所の恩人なり、而して先生は其制度の必要を認むるも自から其業務に関与するを好ます、故を以て当所の設立を告け其基礎定まるを見るや之に関係せられさることとなれり、
一 現任役員
   理事長 中野武営  理事 伊藤幹一
   理事 中島行孝  理事 江口駒之助
   理事 松岡弁  監査役 三枝守富
   監査役 黒川庄次郎  監査役 渡辺対三
   監査役 織田昇次郎
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渋沢ゆかりの地

事業名:東京株式取引所 付.東京取引所
東京株式取引所市場
中央区
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の東京証券取引所の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.16 東京株式取引所
画像名:
東京株式取引所市場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区兜町四、六番地
一 目的事業 内外国債、地方債証券、及ひ諸種有価証券の売買取引
一 創立年月日 明治十一年五月十五日
一 資本金 壱千弐百万円(内払込高八百万円)
一 積立金 五拾七万千四百九拾五円
一 壱箇年売買出来高
   直取引 公債八百七拾五万八百円  社債弐千八百円  株式百五拾参万四千壱百株
   定期取引 公債拾六万千円  株式九百四拾九万壱百株
一 壱箇年利益金 九拾壱万五千六百七拾壱円
一 配当率 年壱割五分
一 沿革
東京株式取引所は、明治十一年五月青淵先生、及渋沢喜作、福地源一郎、木村正幹、深川亮蔵、小松彰、益田孝、小室信夫、三井養之助、同武之助、中島行孝、大倉喜八郎、今村清之助、田中平八、岡本善七、小林吟次郎、三野村利助等の諸氏九十五名胥謀り資本金弐拾万円を以て設立したるものにして、実に本邦に於ける株式取引所の嚆矢なりとす、先是明治四五年の交、取引所問題大蔵省の議に上るや、先生当時同省に在り之が討議研究を為し、各国の実例に考へ、刻下の事情に察し、以て之が公許の巳む可らさるを主張せり、幸に政府は其議を容れ、明治七年第百七号布告を以て株式取引所条例を制定し、爾後之が設立を公許することとなれり、然り而して該条例は尚ほ多少不備の点ありしを以て、明治十一年五月布告第八号により之が改正を施したり、東京株式取引所は即ち此改正条例により始て完全に設立せられ、翌六月一日より業務を開始せるものにして、其営業目的は専ら内外国の国債、地方債証券及諸種有価証券の売買取引を媒介するにあり、当所開業の当時は纔かに新旧及秩禄公債等二三種の取引行はれたるに過きさりしが、後時運の進歩と共に会社株券等の市場に現はるるもの夥多なるに至りしを以て、明治二十九年二月資本を増加して六拾万円と為し、次て三十年六月に至り更に之を百二十五万円に増加せり、降て日露戦役後に至り、企業熱の勃興と共に株式熱亦旺盛を極め其市場に現はるる各種株式は百五十種の多きに達し、公債社債の売買亦四五十種に垂んとするに至りしを以て、更に資本増加の必要を認め、明治三十九年三月に其総額を四百万円に、翌四十年三月更に之を壱千弐百万円に増加せり、明治十一年五月僅かに弐拾万円の資本を以て設立せられ、新旧及秩禄公債等二三種の売買を為せるに過きさりしもの、僅々三十年間にして其資本総額は六十倍に達し、各種有価証券の取引に上るもの七十倍に達せるは、また以て長足の進歩と云ふ可し、
一 当所と青淵先生との関係
青淵先生は、前述せるが如く当所設立の発起人にして、又実に本邦取引所の恩人なり、而して先生は其制度の必要を認むるも自から其業務に関与するを好ます、故を以て当所の設立を告け其基礎定まるを見るや之に関係せられさることとなれり、
一 現任役員
   理事長 中野武営  理事 伊藤幹一
   理事 中島行孝  理事 江口駒之助
   理事 松岡弁  監査役 三枝守富
   監査役 黒川庄次郎  監査役 渡辺対三
   監査役 織田昇次郎
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