事業名:東京人造肥料株式会社
東京人造肥料株式会社本工場
江東区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは化学肥料創業記念碑(釜屋堀公園)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.439 東京人造肥料株式会社
画像名:東京人造肥料株式会社本工場
文献に記載されている解説文等:
東京府下南葛飾郡大島村釜屋堀
 人造肥料は直ちに『かまやぼり』なる語を聯想せしむ、思ふに東京深川釜屋敷なる東京人造肥料株式会社は本邦に於ける人造肥料の鼻祖にして、夙に人口に膾炙し、隠然全国人造肥料業の覇たるの観あればなり。
 同社は明治二十年蜂須賀侯爵、大倉喜八郎、高峯譲吉、安田善次郎、三井武之助、馬越恭平、浅野総一郎、益田孝、渋沢栄一、渋沢喜作等の諸氏によりて創立せられたりしが、当初経営頗る至難にして、且つ両度まで火災に罹り、毎期欠損に次ぐに欠損を以てするの悲境に沈淪せしかば、株主の多くは解散説を唱道して止まざりしに、栄一氏独り継続を主張して頑として之に応ぜず、『諸君若し解散せば余は双手を以て之を経営せん』とまで極論したり。是に於てか諸氏亦大に動かされて遂に営業を継続するに至れり。果して渋沢氏の予想に違はず、二十七年以来漸次需要旺盛となるに従ひ、収益を増加して近年一割六分の配当を継続すと云ふ。渋沢男爵は同社創立以来取締役会長として業務を統轄し、又四十年二月犬丸鉄太郎氏を農商務省より招聘して専務取締役とし、旧弊を打破して社務を改進せしむると共に、同業者との競争場裡に角遂の任に当らしめしかば、事業大に発展し、同年八月には資本金を倍加して三百万円となすの盛況を呈するに至れり。
 明治四十年全国の人造肥料業者は相聯合して値上を企てんとするや、犬丸氏同協議会席上に於て之が反対演説をなし、以て同社の主義方針を遺憾なく表明したり。曰く

本社は二十年一日成るべく有効なる肥料を成るべく低廉に供給して我農家を益し、我国家を利せんとし、一に此目的を以て営業したり、然るに若し此際値上に同意せば、本社は単に利益の多きを貪りて諸君の値上説に賛成するの譏を免れず、仮令世上の譏は尚ほ忍ぶべしとも、本社年来の方針を無視するは断じて為し得ざる所なり。

而し肥料値上説は遂に此一演説の為に敗れ、纔に関西の一部に企てられんとせしが、亦幾何もなくして廃止せられたり。
 同社は此主義を以て着々進行したるが故に、彼の三十七八年戦役に於て一時株式熱に乗じて猥りに勃興したる幾多同業者の如き到底匹敵し得る所にあらざるなり。同社又四十一年六月に至り、北海道人造肥料及び帝国肥料株式会社を買収し、前者を函館工場、後者を横浜工場と改称し、之に従来の釜屋敷、小松川、神戸の三工場を加へなば、北は北海道より南は神戸に至るの間に於て正に五大工場を有し、其資本金は四百万円を以て算し、其販売高は全国需要額の三分一以上を独占供給する所謂名実共に併せ備ふる東洋唯一の大肥料会社たるに至りたり。
 而して明治四十年に於ける全国肥料販売額六千三百万円にして、人造肥料は約四分一、即ち一千六百万円(輸入其内人造肥料を除く)を占め、年々約四割の率を以て増加す、是れ人造肥料が大に在来の諸肥料に優越せるのみならず、要素の含有分量は容量の割合に多く、従つて運賃の低廉なると、且つ其使用甚だ簡便なるとに由るものなり。同会社の前途亦多望なりと云ふべし。
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渋沢ゆかりの地

事業名:東京人造肥料株式会社
東京人造肥料株式会社本工場
江東区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは化学肥料創業記念碑(釜屋堀公園)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.439 東京人造肥料株式会社
画像名:
東京人造肥料株式会社本工場
文献に記載されている解説文等:
東京府下南葛飾郡大島村釜屋堀
 人造肥料は直ちに『かまやぼり』なる語を聯想せしむ、思ふに東京深川釜屋敷なる東京人造肥料株式会社は本邦に於ける人造肥料の鼻祖にして、夙に人口に膾炙し、隠然全国人造肥料業の覇たるの観あればなり。
 同社は明治二十年蜂須賀侯爵、大倉喜八郎、高峯譲吉、安田善次郎、三井武之助、馬越恭平、浅野総一郎、益田孝、渋沢栄一、渋沢喜作等の諸氏によりて創立せられたりしが、当初経営頗る至難にして、且つ両度まで火災に罹り、毎期欠損に次ぐに欠損を以てするの悲境に沈淪せしかば、株主の多くは解散説を唱道して止まざりしに、栄一氏独り継続を主張して頑として之に応ぜず、『諸君若し解散せば余は双手を以て之を経営せん』とまで極論したり。是に於てか諸氏亦大に動かされて遂に営業を継続するに至れり。果して渋沢氏の予想に違はず、二十七年以来漸次需要旺盛となるに従ひ、収益を増加して近年一割六分の配当を継続すと云ふ。渋沢男爵は同社創立以来取締役会長として業務を統轄し、又四十年二月犬丸鉄太郎氏を農商務省より招聘して専務取締役とし、旧弊を打破して社務を改進せしむると共に、同業者との競争場裡に角遂の任に当らしめしかば、事業大に発展し、同年八月には資本金を倍加して三百万円となすの盛況を呈するに至れり。
 明治四十年全国の人造肥料業者は相聯合して値上を企てんとするや、犬丸氏同協議会席上に於て之が反対演説をなし、以て同社の主義方針を遺憾なく表明したり。曰く

本社は二十年一日成るべく有効なる肥料を成るべく低廉に供給して我農家を益し、我国家を利せんとし、一に此目的を以て営業したり、然るに若し此際値上に同意せば、本社は単に利益の多きを貪りて諸君の値上説に賛成するの譏を免れず、仮令世上の譏は尚ほ忍ぶべしとも、本社年来の方針を無視するは断じて為し得ざる所なり。

而し肥料値上説は遂に此一演説の為に敗れ、纔に関西の一部に企てられんとせしが、亦幾何もなくして廃止せられたり。
 同社は此主義を以て着々進行したるが故に、彼の三十七八年戦役に於て一時株式熱に乗じて猥りに勃興したる幾多同業者の如き到底匹敵し得る所にあらざるなり。同社又四十一年六月に至り、北海道人造肥料及び帝国肥料株式会社を買収し、前者を函館工場、後者を横浜工場と改称し、之に従来の釜屋敷、小松川、神戸の三工場を加へなば、北は北海道より南は神戸に至るの間に於て正に五大工場を有し、其資本金は四百万円を以て算し、其販売高は全国需要額の三分一以上を独占供給する所謂名実共に併せ備ふる東洋唯一の大肥料会社たるに至りたり。
 而して明治四十年に於ける全国肥料販売額六千三百万円にして、人造肥料は約四分一、即ち一千六百万円(輸入其内人造肥料を除く)を占め、年々約四割の率を以て増加す、是れ人造肥料が大に在来の諸肥料に優越せるのみならず、要素の含有分量は容量の割合に多く、従つて運賃の低廉なると、且つ其使用甚だ簡便なるとに由るものなり。同会社の前途亦多望なりと云ふべし。
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