事業名:大日本麦酒株式会社
大日本麦酒株式会社目黒工場
目黒区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の大日本麦酒目黒工場(荏原郡目黒村大字三田247)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.95 大日本麦酒
画像名:大日本麦酒株式会社目黒工場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京府荏原郡目黒村大字三田二百四十七番地
一 目的事業 麦酒其他飲料の醸造並其販売
一 創立年月日 明治三十九年三月二十六日
一 資本金 壱千弐百万円(内払込高七百弐拾万円)
一 積立金 七拾七万参千円
一 壱箇年醸造高 拾壱万壱千弐百四拾六石七斗余
一 壱箇年利益金 九拾七万四千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在地
   大阪支店(大阪府三島郡吹田町) 札幌支店(北海道札幌区北二条東四丁目)
   本店出張所(東京市京橋区竹川町二十番地)
一 工場所在地
   目黒、吾妻橋、保土ヶ谷、吹田、札幌
一 沿革
当社は明治三十九年三月二十六日、日本、札幌、大阪、三麦酒株式会社の合同によりて創立せられたるものにして、其目的は内地に於ける相互の競争を避け専ら海外に向つて販路を拡張せんとするにあり、而して創立当時の資本金は五百六拾万円なりしが、後明治四十一年之を増加して壱千弐百万円とし、又東京麦酒株式会社を買収して之を保土ヶ谷工場とし、益々業務を発展し且原料の大部分を占むる大麦の如きも主として之を内地産に仰くこととし其耕作を奨励しつつあり、当社は現在大阪、札幌に支店を有するの外東京、名古屋、九州に出張所を設け、以て目黒、吾妻橋、保土ヶ谷、吹田、札幌五工場に於て製造せる麦酒其他飲料水の販売を為し販路追年拡張しつつありと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
明治十九年十二月北海道庁は旧開拓使庁経営の麦酒醸造業を民業に移すの議を定め、之を大倉喜八郎氏に払下くるや、青淵先生は大倉、浅野其他の諸氏と共に合本組織を以て之を経営することとし、資本金七万円を以て会社を創立せり、当社の前分身たる札幌麦酒株式会社即ち之なり、而して当初は事業萎靡として振はさりしが、取締役会長として先生の経営其宜しきを得たる為め、社運漸く隆盛に赴き、明治三十六年には東京に分工場を設置するに至れり、之を現時の吾妻橋工場とす、此くて同三十七年に至り日本、大阪、札幌三麦酒会社合併の議起るや、先生は其間に斡旋尽力せられ、遂に同三十九年其成立を見るに至れり、而して合同後引続き取締役の任にありしが、昨四十二年古希の寿に躋りたるを機とし之を辞せられたり、
一 現任役員
   取締役社長 馬越恭平  常務取締役 植村澄三郎
   取締役 三浦泰輔  取締役 大橋新太郎
   取締役 宅徳平  取締役 桂二郎
   取締役 土居通夫  取締役 田村英二
   監査役 大倉喜八郎  監査役 大塚和三郎
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渋沢ゆかりの地

事業名:大日本麦酒株式会社
大日本麦酒株式会社目黒工場
目黒区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の大日本麦酒目黒工場(荏原郡目黒村大字三田247)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.95 大日本麦酒
画像名:
大日本麦酒株式会社目黒工場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京府荏原郡目黒村大字三田二百四十七番地
一 目的事業 麦酒其他飲料の醸造並其販売
一 創立年月日 明治三十九年三月二十六日
一 資本金 壱千弐百万円(内払込高七百弐拾万円)
一 積立金 七拾七万参千円
一 壱箇年醸造高 拾壱万壱千弐百四拾六石七斗余
一 壱箇年利益金 九拾七万四千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在地
   大阪支店(大阪府三島郡吹田町) 札幌支店(北海道札幌区北二条東四丁目)
   本店出張所(東京市京橋区竹川町二十番地)
一 工場所在地
   目黒、吾妻橋、保土ヶ谷、吹田、札幌
一 沿革
当社は明治三十九年三月二十六日、日本、札幌、大阪、三麦酒株式会社の合同によりて創立せられたるものにして、其目的は内地に於ける相互の競争を避け専ら海外に向つて販路を拡張せんとするにあり、而して創立当時の資本金は五百六拾万円なりしが、後明治四十一年之を増加して壱千弐百万円とし、又東京麦酒株式会社を買収して之を保土ヶ谷工場とし、益々業務を発展し且原料の大部分を占むる大麦の如きも主として之を内地産に仰くこととし其耕作を奨励しつつあり、当社は現在大阪、札幌に支店を有するの外東京、名古屋、九州に出張所を設け、以て目黒、吾妻橋、保土ヶ谷、吹田、札幌五工場に於て製造せる麦酒其他飲料水の販売を為し販路追年拡張しつつありと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
明治十九年十二月北海道庁は旧開拓使庁経営の麦酒醸造業を民業に移すの議を定め、之を大倉喜八郎氏に払下くるや、青淵先生は大倉、浅野其他の諸氏と共に合本組織を以て之を経営することとし、資本金七万円を以て会社を創立せり、当社の前分身たる札幌麦酒株式会社即ち之なり、而して当初は事業萎靡として振はさりしが、取締役会長として先生の経営其宜しきを得たる為め、社運漸く隆盛に赴き、明治三十六年には東京に分工場を設置するに至れり、之を現時の吾妻橋工場とす、此くて同三十七年に至り日本、大阪、札幌三麦酒会社合併の議起るや、先生は其間に斡旋尽力せられ、遂に同三十九年其成立を見るに至れり、而して合同後引続き取締役の任にありしが、昨四十二年古希の寿に躋りたるを機とし之を辞せられたり、
一 現任役員
   取締役社長 馬越恭平  常務取締役 植村澄三郎
   取締役 三浦泰輔  取締役 大橋新太郎
   取締役 宅徳平  取締役 桂二郎
   取締役 土居通夫  取締役 田村英二
   監査役 大倉喜八郎  監査役 大塚和三郎
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