事業名:東洋汽船株式会社
東洋汽船株式会社汽船天洋丸
中央区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の東洋汽船(日本橋区北新堀町18番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.63 東洋汽船
画像名:東洋汽船株式会社汽船天洋丸
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区北新堀町十八番地
一 目的事業 北米航路及南米航路の海運業を営む
一 創立年月日 明治二十九年七月八日
一 資本金 壱千参百万円(内払込高八百拾弐万五千円)
一 諸積立金 参拾八万九千円
一 出張所 横浜 桑港 香港 神戸
一 代理店 香港、上海、マニラ、長崎、神戸、横浜、ホノルル、マンサニーヨ、サリナクルス、カイヤオ、リマ、イキーケ、バルパライソ、其他世界主要の港市
一 沿革
当社は明治二十九年七月浅野総一郎、阿部彦太郎、原六郎、其他三十余名の人々胥謀り設立したるものにして、其目的とする所は本邦と米国間に於ける航海を便にし海上運輸の業を営むにあり、当時太平洋上の航海は英米汽船の壟断する所なりしが、日清戦役後我が政府は大に航海業の奨励を為すに至りしを以て、当社は政府の特別補助の下に桑港航路を開始し、新船日本丸、亜米利加丸、香港丸の三艘を用ひて之に当り、降て明治三十四年十二月香港「マニラ」間の航路を開通せしが、三十七年日露戦役に際し之を廃止し、三十八年更に南米航路を開き、後一旦之を中止したるも、四十二年に至り政府補助の下に再ひ之を復興し、香港丸、紀洋丸、武洋丸の三艘を以て之に充て、又北米航海には本邦無比の大船、天洋、地洋の二艘を加へ、此他相洋丸満洲丸の荷物船を合せて当社現在の船舶は九艘七万余噸を算するに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の創立に際し推されて其委員長となり、設立後は監査役として業務監督の任にあり、三十三年故あり之を止められたるも、爾後其業務の経営に就ては常に助力を与へられつつあり、
一 現任役員
   取締役社長 浅野総一郎  取締役副社長 大川平三郎
   取締役 大倉喜八郎  取締役 前川太兵衛
   取締役 伊東祐忠  取締役 白石元治郎
   取締役 井阪孝  監査役 小西安兵衛
   監査役 塚原周造  監査役 山中隣之助
画像2

渋沢ゆかりの地

事業名:東洋汽船株式会社
東洋汽船株式会社汽船天洋丸
中央区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の東洋汽船(日本橋区北新堀町18番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.63 東洋汽船
画像名:
東洋汽船株式会社汽船天洋丸
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区北新堀町十八番地
一 目的事業 北米航路及南米航路の海運業を営む
一 創立年月日 明治二十九年七月八日
一 資本金 壱千参百万円(内払込高八百拾弐万五千円)
一 諸積立金 参拾八万九千円
一 出張所 横浜 桑港 香港 神戸
一 代理店 香港、上海、マニラ、長崎、神戸、横浜、ホノルル、マンサニーヨ、サリナクルス、カイヤオ、リマ、イキーケ、バルパライソ、其他世界主要の港市
一 沿革
当社は明治二十九年七月浅野総一郎、阿部彦太郎、原六郎、其他三十余名の人々胥謀り設立したるものにして、其目的とする所は本邦と米国間に於ける航海を便にし海上運輸の業を営むにあり、当時太平洋上の航海は英米汽船の壟断する所なりしが、日清戦役後我が政府は大に航海業の奨励を為すに至りしを以て、当社は政府の特別補助の下に桑港航路を開始し、新船日本丸、亜米利加丸、香港丸の三艘を用ひて之に当り、降て明治三十四年十二月香港「マニラ」間の航路を開通せしが、三十七年日露戦役に際し之を廃止し、三十八年更に南米航路を開き、後一旦之を中止したるも、四十二年に至り政府補助の下に再ひ之を復興し、香港丸、紀洋丸、武洋丸の三艘を以て之に充て、又北米航海には本邦無比の大船、天洋、地洋の二艘を加へ、此他相洋丸満洲丸の荷物船を合せて当社現在の船舶は九艘七万余噸を算するに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の創立に際し推されて其委員長となり、設立後は監査役として業務監督の任にあり、三十三年故あり之を止められたるも、爾後其業務の経営に就ては常に助力を与へられつつあり、
一 現任役員
   取締役社長 浅野総一郎  取締役副社長 大川平三郎
   取締役 大倉喜八郎  取締役 前川太兵衛
   取締役 伊東祐忠  取締役 白石元治郎
   取締役 井阪孝  監査役 小西安兵衛
   監査役 塚原周造  監査役 山中隣之助
画像2