事業名:日本郵船株式会社
日本郵船日光丸食堂
千代田区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本郵船(麹町区有楽町1丁目1番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.38 日本郵船株式会社
画像名:日光丸食堂
文献に記載されている解説文等:
東京市麹町区有楽町一丁目一番地
 同社は明治十八年三月三菱汽船会社と共同運輸会社との合同に成るものなり。創立当時の資本金は一千一百万円にして、所有汽船五十八艘総噸数六万四千余噸なりしに、漸次事業の発達に伴ひ現今の資本金は二千二百万円、諸積立金一千六百七十万円に達し、所有汽船九十五艘、総噸数三十五万余噸にして、此中新造の巨船六艘及び依託船七艘あり。
 社長近藤廉平、副社長加藤正義、専務取締役岩永省一、取締役園田孝吉、浅田正文、荘田平五郎、男爵渋沢栄一、小川〓[金+冉:ぜん]吉、監査役有島武、飯田巽諸氏の下に、一千五百余の人員を使用し、海員は高等海員のみにて九百余名の多きに上る。社風の規律厳粛なるに加へて、社員の執務敏活、技術亦老練なるもの多きを以て、日本実業界の模範と称せらる。
 同社の規模の宏大なる、之を欧米諸国の大海運会社に比するに毫も遜色を見ず、殊に其業務の世界的なる点に於て東洋第一の会社と云ふも敢て過言にあらず。同社が既往に於て内地の交通機関不便を極めたる時代に、其回航に由りて運輸梗塞の歎を除き、又我国の対外貿易幼稚なりし時代に当り、率先海外航路を開きて輸出の発達を資け、或は明治二十七八年戦役、同三十三年北清事変、近くは三十七八年戦役の如き国家有事に際しては、船舶海員を挙げて軍用に供し、帝国の戦勝亦同社に負ふ所少からざるは、普く世人の認むる所なり。
 同社の航路は創立当時は概ね内地の沿岸にして、海外線は横浜上海間、長崎浦塩斯徳間、神戸仁川間の三線に過ぎざりき。爾後明治二十五年に至る間は清国牛荘及び天津に航路を延長したる外著しき発達を見ず。翌年十一月始めて孟買航路を開き、日清戦役後海外航路の拡張を計るや、資本金を増加し、汽船を新造し、遂に欧羅巴、亜米利加、濠洲の三大航路を開くに至れり、是れ実に明治二十九年六月なり。欧洲航路は其前年三月の試航に初まり、米国航路は同十月より開始せるものなり。斯の如くにして世界各国の航通自在となり、就中米国航路は大北鉄道会社及び北太平洋鉄道会社との聯絡ありて米大陸を横断し、大西洋を越えて欧洲大陸に旅行するを得べく、又世界一週切符を発行して周遊旅客の便宜を計れり。而して各船舶の堅牢美麗なると、待客の鄭寧懇切なる、之を欧米各国の船舶に比して優に一地歩を占む。殊に欧、米、濠の三大航路は何れも最新式の巨船を用ひ、速力固より快捷、船内の設備亦欠くるなく、旅客をして身の羈旅にあるを忘れしむ、宜なり欧米諸外国人の常に先を争うて搭乗を希ふことや。
 同社は東京市丸之内馬場先門外近く二重橋を隔てて宮城を拝する所、宏壮の建築高く聳ゆるもの是れなり。支店、出張店及び代理店は世界各国の要津に設けざるなく、内地にありては横浜、神戸、門司、長崎、函館、小樽等、東洋近海にありては釜山、仁川、天津、上海、香港、孟買等、欧洲にありては英国倫敦を其主なるものとす、其他欧、米、并に濠洲等に有名なる代理店ありて、何れも業務整然たり。
 思ふに将来国富の発展維れ急なるに於て、同社に待つ所は多大ならざるを得ず、而して将来我帝国の海外貿易益々発達し、彼我国民の来往愈々頻繁を加ふるに伴ひ、同社の事業更に繁栄を致すべきは、盖し疑を容れざる所なり。
 同社現行の内外航路は左の如し。
欧洲航路
 汽船十二艘を以て毎二週一回横浜、倫敦、安土府間を航行し、神戸、門司、上海(往航のみ)、香港、新嘉坡、彼南(往航のみ)に寄航す。
米国航路
 二週一回香港、シアトル間を航行し、上海、門司、神戸、清水、横浜、ヴイクトリアに寄航す。本航路はシアトルに於て大北鉄道及び北太平洋鉄道に接続し、旅客貨物を互換す。
濠洲航路
 汽船三艘を以て四週一回横浜、メルボルン間を航行し、神戸、門司、長崎、香港、マニラ、木曜島、タウンスヴヰル、ブリスベン、シドニーに寄港す。
 以上何れも命令航路にして欧、米の二航路船舶は悉く六千噸以上、濠洲航路船舶は五千噸以上にして、船内の設備至らざるなし。尚ほ右の外左記の二十線航路あり。
 孟買線 横浜上海線 神戸浦塩線
 神戸大連線 神戸韓国北清線 神戸北清線
 横浜北清線 神戸小樽線 横浜安平打狗線
 横浜四日市線 神戸基隆線 小笠原島線
 青森室蘭線 青森函館線 函館根室線
 根室紗那線 根室網走線 小樽稚内線
 小樽網走線 函館樺太線
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渋沢ゆかりの地

事業名:日本郵船株式会社
日本郵船日光丸食堂
千代田区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本郵船(麹町区有楽町1丁目1番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.38 日本郵船株式会社
画像名:
日光丸食堂
文献に記載されている解説文等:
東京市麹町区有楽町一丁目一番地
 同社は明治十八年三月三菱汽船会社と共同運輸会社との合同に成るものなり。創立当時の資本金は一千一百万円にして、所有汽船五十八艘総噸数六万四千余噸なりしに、漸次事業の発達に伴ひ現今の資本金は二千二百万円、諸積立金一千六百七十万円に達し、所有汽船九十五艘、総噸数三十五万余噸にして、此中新造の巨船六艘及び依託船七艘あり。
 社長近藤廉平、副社長加藤正義、専務取締役岩永省一、取締役園田孝吉、浅田正文、荘田平五郎、男爵渋沢栄一、小川〓[金+冉:ぜん]吉、監査役有島武、飯田巽諸氏の下に、一千五百余の人員を使用し、海員は高等海員のみにて九百余名の多きに上る。社風の規律厳粛なるに加へて、社員の執務敏活、技術亦老練なるもの多きを以て、日本実業界の模範と称せらる。
 同社の規模の宏大なる、之を欧米諸国の大海運会社に比するに毫も遜色を見ず、殊に其業務の世界的なる点に於て東洋第一の会社と云ふも敢て過言にあらず。同社が既往に於て内地の交通機関不便を極めたる時代に、其回航に由りて運輸梗塞の歎を除き、又我国の対外貿易幼稚なりし時代に当り、率先海外航路を開きて輸出の発達を資け、或は明治二十七八年戦役、同三十三年北清事変、近くは三十七八年戦役の如き国家有事に際しては、船舶海員を挙げて軍用に供し、帝国の戦勝亦同社に負ふ所少からざるは、普く世人の認むる所なり。
 同社の航路は創立当時は概ね内地の沿岸にして、海外線は横浜上海間、長崎浦塩斯徳間、神戸仁川間の三線に過ぎざりき。爾後明治二十五年に至る間は清国牛荘及び天津に航路を延長したる外著しき発達を見ず。翌年十一月始めて孟買航路を開き、日清戦役後海外航路の拡張を計るや、資本金を増加し、汽船を新造し、遂に欧羅巴、亜米利加、濠洲の三大航路を開くに至れり、是れ実に明治二十九年六月なり。欧洲航路は其前年三月の試航に初まり、米国航路は同十月より開始せるものなり。斯の如くにして世界各国の航通自在となり、就中米国航路は大北鉄道会社及び北太平洋鉄道会社との聯絡ありて米大陸を横断し、大西洋を越えて欧洲大陸に旅行するを得べく、又世界一週切符を発行して周遊旅客の便宜を計れり。而して各船舶の堅牢美麗なると、待客の鄭寧懇切なる、之を欧米各国の船舶に比して優に一地歩を占む。殊に欧、米、濠の三大航路は何れも最新式の巨船を用ひ、速力固より快捷、船内の設備亦欠くるなく、旅客をして身の羈旅にあるを忘れしむ、宜なり欧米諸外国人の常に先を争うて搭乗を希ふことや。
 同社は東京市丸之内馬場先門外近く二重橋を隔てて宮城を拝する所、宏壮の建築高く聳ゆるもの是れなり。支店、出張店及び代理店は世界各国の要津に設けざるなく、内地にありては横浜、神戸、門司、長崎、函館、小樽等、東洋近海にありては釜山、仁川、天津、上海、香港、孟買等、欧洲にありては英国倫敦を其主なるものとす、其他欧、米、并に濠洲等に有名なる代理店ありて、何れも業務整然たり。
 思ふに将来国富の発展維れ急なるに於て、同社に待つ所は多大ならざるを得ず、而して将来我帝国の海外貿易益々発達し、彼我国民の来往愈々頻繁を加ふるに伴ひ、同社の事業更に繁栄を致すべきは、盖し疑を容れざる所なり。
 同社現行の内外航路は左の如し。
欧洲航路
 汽船十二艘を以て毎二週一回横浜、倫敦、安土府間を航行し、神戸、門司、上海(往航のみ)、香港、新嘉坡、彼南(往航のみ)に寄航す。
米国航路
 二週一回香港、シアトル間を航行し、上海、門司、神戸、清水、横浜、ヴイクトリアに寄航す。本航路はシアトルに於て大北鉄道及び北太平洋鉄道に接続し、旅客貨物を互換す。
濠洲航路
 汽船三艘を以て四週一回横浜、メルボルン間を航行し、神戸、門司、長崎、香港、マニラ、木曜島、タウンスヴヰル、ブリスベン、シドニーに寄港す。
 以上何れも命令航路にして欧、米の二航路船舶は悉く六千噸以上、濠洲航路船舶は五千噸以上にして、船内の設備至らざるなし。尚ほ右の外左記の二十線航路あり。
 孟買線 横浜上海線 神戸浦塩線
 神戸大連線 神戸韓国北清線 神戸北清線
 横浜北清線 神戸小樽線 横浜安平打狗線
 横浜四日市線 神戸基隆線 小笠原島線
 青森室蘭線 青森函館線 函館根室線
 根室紗那線 根室網走線 小樽稚内線
 小樽網走線 函館樺太線
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