事業名:日本勧業銀行
日本勧業銀行
千代田区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本勧業銀行の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.95 株式会社日本勧業銀行
画像名:[日本勧業銀行]
文献に記載されている解説文等:
資本金一千万円
総裁 高橋新吉
副総裁 志村源太郎
理事 有尾敬重
理事 五十嵐敬止
理事 川上直之助
監査役 松尾寛三
監査役 谷謹一郎
監査役 大谷嘉兵衛
設立の由来
 日本勧業銀行の起れる、其由来甚だ遠し。明治十五年時の大蔵卿松方正義氏は中央銀行設立の議を政府に建白するに当りて、等しく興業銀行及び貯蓄銀行に論及せしが、翌十六年四月中央銀行は開設せられたり。爾来政府は所謂興業銀行調査の歩を進め、明治十八年に及びては、大蔵省銀行局長を独仏両国に派遣して土地抵当銀行の制度を視察せしめ、又二十三年には独逸人ドクトル、ヱツゲルトを財務顧問として調査を補助せしめたり。既にして其成案漸く熟するや、時恰も日清戦役後の国状は此特種なる金融機関の設立に向つて好機会を与へたりき。乃ち日本勧業銀行法案は二十八年帝国議会に提出せられ、二十九年には法律として公布せられ、三十年八月本行は遂に開業するに至れり。是れ即ち本行設立の梗概なりとす。
本行の旨趣
 抑々本行の旨趣たる、農工業の改良発達の為資本を貸付するを目的とし、不動産抵当を以て五十箇年以内の年賦償還貸付を為すを原則とし、又五箇年以内の定期償還貸付を為し、府県郡市町村水利土工組合等の公共団体及び耕地整理組合に対しては、無抵当貸付を為すことを得るものとす。而して其貸付資金は主として勧業債券の発行に依るものにして、是が為に国家は特に割増金附債券発行の特典を本行に附与したり。
勧業債券
 開業の翌年即ち明治三十一年上半期には戦後に於ける事業勃興の反動起り、金融切りに逼迫して、新設工業会社の困難せるもの続々踵を接し、趨勢は延いて一般経済界のパニツクを惹起せんとせり。時の大蔵大臣井上馨氏は深く之を憂ひ、遂に日本勧業銀行をして勧業債券を発行せしめ、其公衆応募の不足は政府自ら之を引受け、以て政府監督の下に工業会社に貸付を為さしむるの方策を定めたり。是に於て本行は勧業債券を発行し、三回三百万円を募集し、慎重なる方法を以て年の五月より八月に至る四箇月間に前記諸工業会社に向つて二百三十七万余円の貸付を為し、為に浮動せる商工界は遂に鎮定して、人心頓に平穏に復するを得たりき。
 又明治三十八年東北三県に凶作起りて、救済の声大に昻るや、政府は再び先例に倣ひて一百余万円の勧業債券を引受け、本行をして三県下に於ける公共的土木工事、耕地整理、桑園開発等の改善発達を計り、兼ねて窮民に職を与ふべき事業に向つて貸付を為さしめ、能く時宜に適せる救済の目的を完うするを得たり。
代理貸付
 三十三年政府は農工銀行法を改正し、本行をして農工銀行を代理人とし、且つ其保証を以て資金を貸付するの途を開きたり。葢し農工銀行営業の目的及び方法は本行と殆ど其揆を一にす、故に農工債券の発行に対しては、本行常に其幾分を引受けて其貸付金の便宜を与へしが、農工債券の発行意の如くならざるものありて、各地の小農工業者不便を訴ふる声起りぬ、是れ即ち本行が代理貸付の方法を設くるに至りし所以なり。而して四十年十月の頃に至るまで本行が農工銀行に融通せる金額は一千三百三十余万円に上り、本行直接貸付金額の約七割に当れり。又台湾に対しても台湾銀行を経由して此種の方法を施し、土地改良及び埤圳事業の便を計れり。
事業の成績
 此の如く本行が農業(土地改良)に対する貸付金額は二千四百三十余万円、養蚕、牧畜、肥料等に対しては三百九十余万円、工業に対しては一千九百十五万余円に達せるを見れば、其殖産興業の発展に貢献せるの効果は大なりと謂ふべし。
 而して本行が創業以来四十年十月に至る十箇年間に於ける各種貸付金の総額は四千九百十二万六千余円に達し、其内償還を受けたるものは一千五百十四万九千余円にして、現存貸付高は三千三百九十七万七千余円なりといふ。
 又三十七年より三十九年に至るの間、貯蓄債券を発行して軍国の財界に資し、円転の運用を扶助したる事は、近く世人の善知する所なり。
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渋沢ゆかりの地

事業名:日本勧業銀行
日本勧業銀行
千代田区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本勧業銀行の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.95 株式会社日本勧業銀行
画像名:
[日本勧業銀行]
文献に記載されている解説文等:
資本金一千万円
総裁 高橋新吉
副総裁 志村源太郎
理事 有尾敬重
理事 五十嵐敬止
理事 川上直之助
監査役 松尾寛三
監査役 谷謹一郎
監査役 大谷嘉兵衛
設立の由来
 日本勧業銀行の起れる、其由来甚だ遠し。明治十五年時の大蔵卿松方正義氏は中央銀行設立の議を政府に建白するに当りて、等しく興業銀行及び貯蓄銀行に論及せしが、翌十六年四月中央銀行は開設せられたり。爾来政府は所謂興業銀行調査の歩を進め、明治十八年に及びては、大蔵省銀行局長を独仏両国に派遣して土地抵当銀行の制度を視察せしめ、又二十三年には独逸人ドクトル、ヱツゲルトを財務顧問として調査を補助せしめたり。既にして其成案漸く熟するや、時恰も日清戦役後の国状は此特種なる金融機関の設立に向つて好機会を与へたりき。乃ち日本勧業銀行法案は二十八年帝国議会に提出せられ、二十九年には法律として公布せられ、三十年八月本行は遂に開業するに至れり。是れ即ち本行設立の梗概なりとす。
本行の旨趣
 抑々本行の旨趣たる、農工業の改良発達の為資本を貸付するを目的とし、不動産抵当を以て五十箇年以内の年賦償還貸付を為すを原則とし、又五箇年以内の定期償還貸付を為し、府県郡市町村水利土工組合等の公共団体及び耕地整理組合に対しては、無抵当貸付を為すことを得るものとす。而して其貸付資金は主として勧業債券の発行に依るものにして、是が為に国家は特に割増金附債券発行の特典を本行に附与したり。
勧業債券
 開業の翌年即ち明治三十一年上半期には戦後に於ける事業勃興の反動起り、金融切りに逼迫して、新設工業会社の困難せるもの続々踵を接し、趨勢は延いて一般経済界のパニツクを惹起せんとせり。時の大蔵大臣井上馨氏は深く之を憂ひ、遂に日本勧業銀行をして勧業債券を発行せしめ、其公衆応募の不足は政府自ら之を引受け、以て政府監督の下に工業会社に貸付を為さしむるの方策を定めたり。是に於て本行は勧業債券を発行し、三回三百万円を募集し、慎重なる方法を以て年の五月より八月に至る四箇月間に前記諸工業会社に向つて二百三十七万余円の貸付を為し、為に浮動せる商工界は遂に鎮定して、人心頓に平穏に復するを得たりき。
 又明治三十八年東北三県に凶作起りて、救済の声大に昻るや、政府は再び先例に倣ひて一百余万円の勧業債券を引受け、本行をして三県下に於ける公共的土木工事、耕地整理、桑園開発等の改善発達を計り、兼ねて窮民に職を与ふべき事業に向つて貸付を為さしめ、能く時宜に適せる救済の目的を完うするを得たり。
代理貸付
 三十三年政府は農工銀行法を改正し、本行をして農工銀行を代理人とし、且つ其保証を以て資金を貸付するの途を開きたり。葢し農工銀行営業の目的及び方法は本行と殆ど其揆を一にす、故に農工債券の発行に対しては、本行常に其幾分を引受けて其貸付金の便宜を与へしが、農工債券の発行意の如くならざるものありて、各地の小農工業者不便を訴ふる声起りぬ、是れ即ち本行が代理貸付の方法を設くるに至りし所以なり。而して四十年十月の頃に至るまで本行が農工銀行に融通せる金額は一千三百三十余万円に上り、本行直接貸付金額の約七割に当れり。又台湾に対しても台湾銀行を経由して此種の方法を施し、土地改良及び埤圳事業の便を計れり。
事業の成績
 此の如く本行が農業(土地改良)に対する貸付金額は二千四百三十余万円、養蚕、牧畜、肥料等に対しては三百九十余万円、工業に対しては一千九百十五万余円に達せるを見れば、其殖産興業の発展に貢献せるの効果は大なりと謂ふべし。
 而して本行が創業以来四十年十月に至る十箇年間に於ける各種貸付金の総額は四千九百十二万六千余円に達し、其内償還を受けたるものは一千五百十四万九千余円にして、現存貸付高は三千三百九十七万七千余円なりといふ。
 又三十七年より三十九年に至るの間、貯蓄債券を発行して軍国の財界に資し、円転の運用を扶助したる事は、近く世人の善知する所なり。
画像2