事業名:大日本麦酒株式会社
大日本麦酒札幌工場
札幌市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の札幌工場(札幌区)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.382 大日本麦酒株式会社
画像名:大日本麦酒札幌工場
文献に記載されている解説文等:
 同社は明治三十九年一月、日本、札幌、大阪三大麦酒株式会社の合同したるものにして、四十年一月更に東京麦酒新株式会社を買収し、爾来万般の設備を整へ、社運益々好況を呈するに際し、四十一年一月株主臨時総会を開き、更に資本金六百四十万円を増加し、総計一千二百万円となすの議を決したり。然れば此大会社将来の発展は蓋し測るべからざるものありと謂ふべし。
 抑々我邦に於ける三大麦酒会社合同の目的たる、内地に於て各社相互間の競争を避け、専ら海外に向つて販路を拡張するに在り。而して醸造の原料は成るべく之を内地に仰ぐことゝなし、大麦の如きは全く内地産を用ひ、大に其耕作を奨励せり。
 同社製品の需用は内国は勿論、海外に於ては近くは満韓の全土に渉り、北は浦塩斯徳に入り、更に南洋諸島及び印度の遠きに及び、到る処好評を博して日に月に愛用者の増加を告げつゝあり。
営業場
 本店 東京府荏原郡目黒村
 東京出張所 東京市京橋区竹川町
 大阪支店 大阪府三島郡吹田村
 大阪出張所 大阪市東区高麗橋
 札幌支店 札幌区北二条東四丁目
 横浜出張所 横浜市常盤町五丁目
 名古屋出張所 名古屋市新柳町
工場
 目黒工場 東京府荏原郡目黒村
 吾妻橋工場 東京市本所区吾妻橋際
 保土ヶ谷工場 神奈川県保土ヶ谷町
 吹田工場 大阪府三島郡吹田村
 札幌工場 北海道札幌区
製品種目
 ヱビスビール サツポロビール
 アサヒビール ピースビール
 東京ビール サツポロ黒ビール
合同以前に於ける三会社沿革
日本麦酒株式会社
 明治二十年頃に至り麦酒の嗜好者漸次増加するの趨勢ありしと雖、未だ内地に於て完全なる麦酒醸造所の設置なく、従つて外品の輸入著しく増加するを慨し、同年九月有志相謀り資本金十五万円を以て同社を創立せしが、事業振はず、社運窮況に陥りしかば、二十五年五月馬越恭平氏代りて前社長の後を承け、経営大に努め、工場を増設し、麦芽製造所を新設して事業の拡張を図り、三十年更に一百三十万円に増資し、一箇年四万石の醸造高を見るに至りしが、同三十九年に至り遂に合同せり。
札幌麦酒株式会社
 同社は明治九年開拓使庁に於て北海道拓殖事業の一として麦酒の原料大麦及び忽布を栽培し、同時に麦酒の醸造所を設けたるに濫觴す。初め年額僅に一百石なりしが、四年を経て五百石を醸造し、物産局、工業局等の管理を経て北海道庁の所管に属し、十九年十二月旧開拓使の遺業悉く民間に移さるゝに当り、同醸造所も亦大倉組の所有に帰せしが、後組織を改めて資本金七万円の株式会社と為し、渋沢栄一氏社長として工場の整理改善に努め、年々二千五百石以上を醸造するに至れり。二十七年植村澄三郎氏専務取締役に就任以来、販路更に拡まりしかば、増資して一百万円と為し、製瓶所、製麦所並に東京分工場を設け、益々規模の完美を告ぐるに至つて遂に合同せり。
大阪麦酒株式会社
 同社は明治二十年十月鳥井駒吉、外山修造両氏の発起したる所、当初経営頗る困難なりしが、遂に二十四年十二月麦酒の醸造及び麦芽の製造に従事し、翌年始めて旭ビールの名称を以て発売せしに、品質の醇良を以て大に世の嗜好に投ぜり。爾後増資すること数回、工場を増築して設備を整へ、日清戦後に至りては一般商工業の発展に加ふるに、同社は清韓其他海外輸出上至便の地利を占むるが故に、麦酒の輸出亦非常の増進を見るに至りしかば、更に遠大の計画を立てゝ二十九年七月一百万円に増資し、日露戦後更に五十万円を増資して愈々業務の拡張を図るに際し、三社合同するに至れり。社長鳥井駒吉氏は創立以来其任に在りて、一意其経営に尽して同社の隆運を継続せり。
現今の重役諸氏
 社長馬越恭平  常務取締役植村澄三郎  取締役男爵渋沢栄一
 取締役三浦泰輔 田中市太郎 大橋新太郎 宅徳平
 監査役大倉喜八郎 土居通夫 筧元忠
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渋沢ゆかりの地

事業名:大日本麦酒株式会社
大日本麦酒札幌工場
札幌市
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の札幌工場(札幌区)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.382 大日本麦酒株式会社
画像名:
大日本麦酒札幌工場
文献に記載されている解説文等:
 同社は明治三十九年一月、日本、札幌、大阪三大麦酒株式会社の合同したるものにして、四十年一月更に東京麦酒新株式会社を買収し、爾来万般の設備を整へ、社運益々好況を呈するに際し、四十一年一月株主臨時総会を開き、更に資本金六百四十万円を増加し、総計一千二百万円となすの議を決したり。然れば此大会社将来の発展は蓋し測るべからざるものありと謂ふべし。
 抑々我邦に於ける三大麦酒会社合同の目的たる、内地に於て各社相互間の競争を避け、専ら海外に向つて販路を拡張するに在り。而して醸造の原料は成るべく之を内地に仰ぐことゝなし、大麦の如きは全く内地産を用ひ、大に其耕作を奨励せり。
 同社製品の需用は内国は勿論、海外に於ては近くは満韓の全土に渉り、北は浦塩斯徳に入り、更に南洋諸島及び印度の遠きに及び、到る処好評を博して日に月に愛用者の増加を告げつゝあり。
営業場
 本店 東京府荏原郡目黒村
 東京出張所 東京市京橋区竹川町
 大阪支店 大阪府三島郡吹田村
 大阪出張所 大阪市東区高麗橋
 札幌支店 札幌区北二条東四丁目
 横浜出張所 横浜市常盤町五丁目
 名古屋出張所 名古屋市新柳町
工場
 目黒工場 東京府荏原郡目黒村
 吾妻橋工場 東京市本所区吾妻橋際
 保土ヶ谷工場 神奈川県保土ヶ谷町
 吹田工場 大阪府三島郡吹田村
 札幌工場 北海道札幌区
製品種目
 ヱビスビール サツポロビール
 アサヒビール ピースビール
 東京ビール サツポロ黒ビール
合同以前に於ける三会社沿革
日本麦酒株式会社
 明治二十年頃に至り麦酒の嗜好者漸次増加するの趨勢ありしと雖、未だ内地に於て完全なる麦酒醸造所の設置なく、従つて外品の輸入著しく増加するを慨し、同年九月有志相謀り資本金十五万円を以て同社を創立せしが、事業振はず、社運窮況に陥りしかば、二十五年五月馬越恭平氏代りて前社長の後を承け、経営大に努め、工場を増設し、麦芽製造所を新設して事業の拡張を図り、三十年更に一百三十万円に増資し、一箇年四万石の醸造高を見るに至りしが、同三十九年に至り遂に合同せり。
札幌麦酒株式会社
 同社は明治九年開拓使庁に於て北海道拓殖事業の一として麦酒の原料大麦及び忽布を栽培し、同時に麦酒の醸造所を設けたるに濫觴す。初め年額僅に一百石なりしが、四年を経て五百石を醸造し、物産局、工業局等の管理を経て北海道庁の所管に属し、十九年十二月旧開拓使の遺業悉く民間に移さるゝに当り、同醸造所も亦大倉組の所有に帰せしが、後組織を改めて資本金七万円の株式会社と為し、渋沢栄一氏社長として工場の整理改善に努め、年々二千五百石以上を醸造するに至れり。二十七年植村澄三郎氏専務取締役に就任以来、販路更に拡まりしかば、増資して一百万円と為し、製瓶所、製麦所並に東京分工場を設け、益々規模の完美を告ぐるに至つて遂に合同せり。
大阪麦酒株式会社
 同社は明治二十年十月鳥井駒吉、外山修造両氏の発起したる所、当初経営頗る困難なりしが、遂に二十四年十二月麦酒の醸造及び麦芽の製造に従事し、翌年始めて旭ビールの名称を以て発売せしに、品質の醇良を以て大に世の嗜好に投ぜり。爾後増資すること数回、工場を増築して設備を整へ、日清戦後に至りては一般商工業の発展に加ふるに、同社は清韓其他海外輸出上至便の地利を占むるが故に、麦酒の輸出亦非常の増進を見るに至りしかば、更に遠大の計画を立てゝ二十九年七月一百万円に増資し、日露戦後更に五十万円を増資して愈々業務の拡張を図るに際し、三社合同するに至れり。社長鳥井駒吉氏は創立以来其任に在りて、一意其経営に尽して同社の隆運を継続せり。
現今の重役諸氏
 社長馬越恭平  常務取締役植村澄三郎  取締役男爵渋沢栄一
 取締役三浦泰輔 田中市太郎 大橋新太郎 宅徳平
 監査役大倉喜八郎 土居通夫 筧元忠
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