事業名:函樽鉄道株式会社(北海道鉄道株式会社)
旧北海道鉄道株式会社函館駅
函館市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは参考として「初代函館駅所在地碑」近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.81 北海道鉄道株式会社
画像名:旧北海道鉄道株式会社函館駅
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市京橋区木挽町五丁目五番地
一 目的事業 函館より小樽に至る百五拾九哩の鉄道を敷設し旅客及貨物の輸送を営む
一 創立年月日 明治三十四年二月二十一日
一 解散当時資本金 六百参拾四万円
一 壱箇年旅客数及貨物輸送額
旅客 八拾弐万六千五百人(三十九年度の調による)
貨物 弐拾五万五千弐百噸(同上)
一 沿革
当社は明治三十四年二月資本金八百万円を以て男爵北垣国道氏等の発起創立せる所にして、其前身は函樽鉄道株式会社なりとす、抑も函樽鉄道会社は明治二十九年の交、青淵先生及森岡昌純、近藤廉平、加藤正義、原六郎、今村清之助、浅田正文等諸氏によりて発起せられしが、当時恰も経済界の否運に際せしを以て一時其計画を中止したり、越て三十三年七月に至り北垣国道氏等前記計画の再興を計り、先生等亦之に賛同したるを以て、翌三十三年五月其敷設免許を得、翌年二月之を北海道鉄道株式会社と改称して其設立登記を為せり、其後当社は再ひ財界の悲境に遇ひ容易に其著手に至らさりしが、三十五年六月漸く工を起し、三十六年に至り軍国に貢献する為め速成の必要を感し、日夜工事の進行に力めたるの結果、三十八年七月其全線は開通して旧炭礦線との連絡を通するに至れり、当社線路は北海道中商業の最も繁盛なる函樽両市街を連絡せることとて逐次良好の成績を挙けつつありしが、鉄道国有法発布に因り明治四十年七月一日政府の有に帰し、会社は現今解散清算中に属せり、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社創立の賛助者にして、又其前身たる函樽鉄道会社の発起人なり、而して当社成立後引続き相談役の任にあり、三十七年十二月病の故を以て之を辞せられたるも尚常に当社の為めに力を致されたり、
一 現任役員
専務清算人 坂本則美  清算人 北垣国道  清算人 園田実徳  清算人 久米弘行  清算人 二木彦七  監査役 対馬嘉三郎  監査役 佐野定七
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渋沢ゆかりの地

事業名:函樽鉄道株式会社(北海道鉄道株式会社)
旧北海道鉄道株式会社函館駅
函館市
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは参考として「初代函館駅所在地碑」近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.81 北海道鉄道株式会社
画像名:
旧北海道鉄道株式会社函館駅
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市京橋区木挽町五丁目五番地
一 目的事業 函館より小樽に至る百五拾九哩の鉄道を敷設し旅客及貨物の輸送を営む
一 創立年月日 明治三十四年二月二十一日
一 解散当時資本金 六百参拾四万円
一 壱箇年旅客数及貨物輸送額
旅客 八拾弐万六千五百人(三十九年度の調による)
貨物 弐拾五万五千弐百噸(同上)
一 沿革
当社は明治三十四年二月資本金八百万円を以て男爵北垣国道氏等の発起創立せる所にして、其前身は函樽鉄道株式会社なりとす、抑も函樽鉄道会社は明治二十九年の交、青淵先生及森岡昌純、近藤廉平、加藤正義、原六郎、今村清之助、浅田正文等諸氏によりて発起せられしが、当時恰も経済界の否運に際せしを以て一時其計画を中止したり、越て三十三年七月に至り北垣国道氏等前記計画の再興を計り、先生等亦之に賛同したるを以て、翌三十三年五月其敷設免許を得、翌年二月之を北海道鉄道株式会社と改称して其設立登記を為せり、其後当社は再ひ財界の悲境に遇ひ容易に其著手に至らさりしが、三十五年六月漸く工を起し、三十六年に至り軍国に貢献する為め速成の必要を感し、日夜工事の進行に力めたるの結果、三十八年七月其全線は開通して旧炭礦線との連絡を通するに至れり、当社線路は北海道中商業の最も繁盛なる函樽両市街を連絡せることとて逐次良好の成績を挙けつつありしが、鉄道国有法発布に因り明治四十年七月一日政府の有に帰し、会社は現今解散清算中に属せり、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社創立の賛助者にして、又其前身たる函樽鉄道会社の発起人なり、而して当社成立後引続き相談役の任にあり、三十七年十二月病の故を以て之を辞せられたるも尚常に当社の為めに力を致されたり、
一 現任役員
専務清算人 坂本則美  清算人 北垣国道  清算人 園田実徳  清算人 久米弘行  清算人 二木彦七  監査役 対馬嘉三郎  監査役 佐野定七
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